曜日のこども+
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Monday's child is fair of face,
Tuesday's child is full of grace,



 もはや惰性となった口付けは、幼い頃に舐めた窓硝子にも似た無機質の味がした。
 雨に当たり、溶けた様な色を映し出す姿を見つめ、実はとても見知らぬ不思議な味がす
るのだと子供特有の無邪気さで、馬鹿げた想いからそっと舐めた透明な板は、苦くも甘く
も無く只舌を撫で付ける冷たい感触だけを残して、唾液できらめくばかり。
 限りなく黒に近い赤で染まる部屋には、少女たちが奏でた喧騒の滓が積み重なり、白く
粉を吹く。甘く怠惰な日常は今は遠く、形さえも残さずに、只一抹の残り香だけを残し、
陽と共に沈んでいってしまった。後に残るのは、二人を残して死んだ世界の欠片。
 「ぅん…はぁ…」
 湿った舌が、溶けかけた氷菓の甘くべとついた汁を舐め取る様に唇の形をなぞり、乾い
た唇が、剥いた桃から腕に沿って流れる果汁を飲む様に音を立てて吸う。空気が唾液で震
え、ずちゅずちゅと水音が立つ。頬にかかる荒い鼻息が少しこそばゆい。其れでも、心は
揺るがずに、冬に空を埋める灰色の雲よりも堅く凍りついたまま。
 「ふ…んはぁ…」
 絡めあった舌の感触は生温く、何の興奮も無いまま、只濡れた肉を嘗め回すだけの、味
の無くなったガムを怠惰に噛んでいるのにも似た虚しさだけしか無く。其れでも、只唾液
を明け渡し、譲り受けるだけの行為にさえも、薄い肉の中に蹲った心臓はぞわりとむかつ
きにも似た情動に身を震えさせてしまう。
 其処に、幾度と無く人の言う愛情が発露する一端も悦楽への枯渇も、ましてや肉親同士
の禁忌を犯す背徳的な喜びも悲哀も無く、例えるならば蟻を、歩きしなに蟻を一匹踏んで
しまったのに似た虚しさだけが、口中に広がって、喉の奥を汚していく感覚だけが、互い
に注いだ唾液に混じるだけで。窓の外で一つ鳴いた鴉の声も、馬鹿馬鹿しいほどに。
 立ち尽くしたまま、互いに絡ませた薬指にじとりと汗が浮く。中指を、人差し指をと絡
ませては繋がり、握り合った手の数ミリの隙間に暗がりの風が一凪通り過ぎる。滞り、腐
った林檎の放つ異臭にも似た甘たるい香りが、繋がったままの掌と唾液を引きながら離れ
た唇とに。爛れたような痒みと熱が、濡れた薄い肉に纏わりつく。少しだけ覗く歯の並び
が、夕闇に紅く染まる。
 視線だけを交わす。其処に言葉は無い。何も要らない。言えば空気に紛れて、過剰な装
飾を着込んだ嘘臭さにしかならないのに、何を言う必要があるとでも。再び、唇を合わせ
る事もなく、横に少し俯いて、露になった首筋を舌でなぞる。ざらりとした産毛の感触、
がさがさと乾いた感触は、湿っている筈の自分の舌なのか、彼女の肌なのか、両方なのか。
そんな事さえも、今はどうでも良く。
 前歯で柔らかく噛みながら、首筋から制服の襟元に隠された鎖骨までを、ぞろりと舐め
上げる。肌は冷え切っていた。紙を舐めているかのように。肉の筆で書いた後に残る、自
分の唾液の不愉快な湿り気だけが、舌先に残るばかり。
 「はぁ…」
 零れた吐息は、緩やかな刺戟に身を揺らせるものではなく、只心に空いた幾つもの穴か
ら漏れ出る悲鳴と軋み。タイヤに空いた穴から空気が漏れるのにも似た、虚脱。幾度も幾
度も聞いた、声。決まって、彼女は感情の水を笊へと流し込んだ後の顔をしたままで、視
界の端に浮いた飛蚊症を追う様に視線を這わせるだけ。
 襟元まで舌を這わせると、そのまま膝を曲げ、スカートの中へと顔を入れた。只黙々と、
螺子で巻く胡桃割り人形が堅い果実の殻を噛み砕くが如く、機械的というよりも一切の感
情と思考を排し、そうする事がさも当然と云う愚かな人々にも似た動きで、円錐状の暗が
りの頂点に位置した、中に収まっている秘唇の溝で歪んだ白い布の其の合間を鼻先で擦り
あげる。僅かに香る発酵した饐えた匂い。嗅ぐ度に、僅かな吐気が込み上げる。何時まで
経っても好きになんかなれない、子宮の奥から滲み出す心の腐った臭い、粘ついて咽喉の
奥に絡みつく理性が爛れた匂い。眼を閉じて、口から息を吐きながら、鼻先で下穿きの撓
んだ筋を擦りつける。何も見えない、何も聴こえない、何もかもが閉ざされたまま、只鼻
の先を彼女の性器の形をなぞる様に擦り付けるだけ。猫が餌に甘える様に、膝元に擦り寄
ってくる仕草そっくりに。
 遠くで蚊の鳴く程、幽かに聴こえる荒い吐息。じっとりと汗ばんだ太股が擦りつけた頬
に吸い込まれた様にへばりつく。自分の胸の上につぅっと走る一滴の汗が、気持ち悪い。
 埋めていた鼻を離すと、僅かに湿った布へと舌を這わせる。繊維のざらついた感触、乾
いた唾液が放つ不快な匂いに混じり、舌を突く酸味。白い包皮に包まれた赤黒い華の蜜は
頭をぐらぐらと酩酊させる苦味が混じっていた。僅かだが確実に身体を冒す其の毒は、決
して甘美な物ではなく、一切の思考を蝕んで、只の空白に、何一つの言葉さえも許さない
程ずたずたに心を引き裂く。求めて止まないものではなく、拒絶さえも失ってしまう、そ
んな。
 濡れた布から舌に細い蜘蛛の糸の様な橋が架かる。彼女は、腰を浮かせ、後ろにあった
机の上に其の身を乗せた。そろそろと自分を包み込み、隔絶していたスカートの闇が紅い
夕陽に刻まれる。夕暮れの茜の中で、自らスカートを持ち上げ、其の裾を口に咥えた彼女
の姿は、扇情的というよりも、昔に見た地獄絵図の亡者にも似て、忌まわしく、おぞまし
かった。露になった下腹部にぴっちりと食い込んだ綿の下穿きを、お互い無言のまま引き
降ろす。曲がった膝の上をかすめ、宙でふらふらと揺れていた右足に抜けた白く小さな布
は、振り子の様に引っかかったままの片足で揺れている。
 誰もいない教室、埃さえも薄っすらと抜け落ちた硬質な部屋、其の真ん中で太陽を背に
した彼女の太股の合間に咲く華は、枯れた井戸の中の様に黒い蟠りとなって、福沢祐麒の
前に紅く濡れていた。ぞろりと紗に染まった腿にそっと手を這わせると、膜の様に張った
汗がべっとりと吸い付く。陰唇に顔を近づけると、より一層濃い、あの匂いが。胸をつく
吐気を呑み込み、厚く黒ずんだ肉唇に形をなぞりながら、舌を這わせる。円を描き、開き
つつある其の深淵へと尚も這いながら、突き出す。其の度に花弁の奥から溢れる蜜の味。
チーズを腐らせた匂い、びりびりと痺れる様な酸味、唾液とは違う温度。
 「っ…」
 咽喉の奥から荒く吐き出される声を、スカートの裾と一緒に噛み砕く。唇の端から漏れ
た唾が濃緑色の布地を更に黒く染める。眉を顰め、天を仰ぎ、歯を食いしばり、身の内か
ら零れる快楽の潮に耐えていると云うよりも、千年の拷問に耐える餓鬼の如き顔は、沈ん
だ太陽の陽射に隠されて、祐麒には見えない。只、目の前で息づく赤黒い花びらを舐める
ばかり。息を止め、心も殺し、襞を掻き分け、ぼうっと開いた膣口の縁を貪るように、舐
めるばかり。鼻先で皮に包まれた肉芽を突き、執拗に。舌の動きに合わせ、蜜壷からはと
めどなく、だらしなく、はしたない汁を吐き出し、股の間に顔を埋めた彼の舌を、頬を濡
らしていく。
 どれ位、そうしていたのだろう。
 熔けた鉄色の陽は、其の姿をもう地平線に埋め、空には群青色の布を纏い、星の羅紗を
撒き始めていた。尚も執拗に、彼女の性器を舐る其の肩に、そっと震えた指先が乗った。
顔を上げ、伸びた腕の先、暗がりの中に浮いた一対の濡れた瞳を見つめた。震えて見える
のは、此の暗闇が見せる錯覚なのだろうか。身体を起し、顔を伏せたまま、自分のズボン
に手を掛けた。するすると衣擦れの音が誰も居ない部屋に響く。僅かに脹らんだ下着の上
を、肩に掛けていた指が爪を立て、そっとなぞる。こりこりと根元を、トランクスの真ん
中に空いた穴の隙間を縫い、中で浮き上がった性器の血管を、亀頭の鰓の下を。一つだっ
た指は、二本に増え、手首を中へと埋め、肉茎を軽く握りながら、上下に揺さぶる。
 祐麒は姉の肩に両手を掛け、下腹部から這い上がる刺戟を拒否する様に眼を閉じた。荒
い吐息が、目の前で虚ろに扱く彼女の頬にかかる。ぎりっと爪が小さな少女の肩に食い込
み、制服に痣をつける。其れでも、祐巳は手を緩める事もなく、尚も勢いを強め、彼自身
を擦り上げる。
 「ゆうき…」
 其の動きがはたりと止まり、自分の傍らで喘ぐ弟の耳元に其の名を囁きかける。たどた
どしく、唾で縺れた舌が打つ、掠れた甘たるい声。見上げると、其処には汚く歪んだ、笑
顔が、べっとりと貼り付いていた。
 「ああ…」
 何の言葉が必要だろうか。もう、どれ程の言葉が自分達に必要なのだろうか。
 祐巳の肩にかけていた手を持ち上げて、緩慢に片手で自分の下穿きを脱ぎ捨てる。孤立
した陰茎は其の先を露で濡れていた。教室を覆う暗がりと、二人の合間に作られた暗闇と
が入り混じり、影が滞る其の海に浮いた、雫はまるで泣いている様で。
 机の上で潰れた尻の肉を両手で抱え込む様に握り、未だ其の滑りを枯れさせない肉華へ
と、自らの性器を擦りつけながら、ずぷりと埋め込んだ。温度を持った幾千の蚯蚓が這い
回り、呑み込む様な感覚。熱く締め付ける感触。滑り付く襞の一つ一つに食い破られそう
な錯覚。祐巳の腕が祐麒の首へと回り、火照り切った頬を首筋へと擦りつける。其の、小
さく細い背中に腕を廻し、抱え込み、更に深く彼女の奥深くへと肉茎を突き刺す。
 「あぁあっ…」
 耳に響く喘ぐ声。暑苦しい吐息。制服越しに伝わる体温。
 腰を浅く深く前後に揺ぶる度に、全てが群青色に染まりつつある教室の中で混濁し、渦
を巻き、噎せ返る様な匂いとなって、祐麒の心にインクの染みをつける。写真を焼いた時
に、其の表層に浮く、焦げた泡沫、焼き爛れ、幾重にも重なる円を描きながら、やがて全
て灰になる。そんな、染みを。ぐちゃりぐちゃりと水音が二人の合間に出来た黒いモザイ
クの底から鳴る。じりじりと尚も焦げていく心、身に沸きあがる情欲と刺激とは裏腹に稀
薄になっていく現実感。耳鳴り。目眩。そして、絶え間なく喉元へと込み上げてくる空虚。
にちゃりにちゃりと濡れた肉同士が絡み合う水音、陰茎に虫食う摩擦による痒み。祐麒は、
姉の秘唇を突き立てながら、不意に性的な疼きと肌の痒みは同じ感覚だと聞いた事を思い
出した。所詮は、蚊に食われた後に出来る小さな腫れを掻き毟る、其の快感と同じなのだ
と。其れならば、今自分の中で膨れ上がった虚無は、何の感覚と同じなのだろうか。先に
溜まってゆく射精の予感に混じった、此のコールタールの様な空虚さは。
 目の前で、二つに縛った髪が揺れ、暗がりに鈍く濡れた双眸が揺らいだ。口から甘い吐
息を吐きながらも、其れでも穴が開いた様に滞る黒い瞳。祐巳は緩慢に首を振ると、唾液
で粘ついた赤黒い舌を伸し、弟の舌をせがむ。互いの首が陰となり、僅かにも差し込めな
い光を遮り、彼女の表情を見る事は出来ない。其れでも、其の先にあるのはいつもと同じ、
夜の海の様な陰鬱で無感動で陰気な無感情の貼りついた、能面よりも尚白い、あの顔なの
だろうと。祐麒は、ちろちろと水に飢えた犬がする様に宙を掻く肉に、舌を交わらせ、口
の中の唾液を啜る。
 其の時に、彼は少しだけ分かった気がした。
 此の味は、胸に込み上げる此の無色の感情は、幼い日に舐めた、硝子の味なのだと。
 「祐巳…そろそろ、いくぞ」
 「うはぁん…だし…てぇ…中に、中に出してぇ」
 甘たるい懇願。吐き気がする。
 歯を食いしばり、下唇を噛み締め、息を止め、腰の速度を上げていく。卑猥な水を叩く
音の周期は狭まり、祐巳の吐息も絶え絶えになっていく。早く、早く終わってしまえ。ぎ
ちりと背中に回した腕に力が籠もり、厚ぼったい制服の布地に爪を立てる。早く、早く何
もかも終わってしまえば良い。
 「う…くっ。出るぞ…」
 「あはぁあ…来てぇ、来てぇぇぇ!」
 どくりと管に白い体液が走る。抑え付けられていた箍が外れた感覚と共に、だくだくと
祐麒は姉の膣の中へと精液を撒き散らした。
 「あつ…い…」
 白く濁った吐息。黒く濁った部屋。口中に滞り粘りつく、濁り切った唾液。一つ、二つ
と息を吸う度に、間の抜けた風の抜ける音が喉の奥で鳴る。ぎちぎちと肺が棘の生えた紐
で縛られている様な痛み。眩暈。噎せ返る様な匂いは、欲情の後に残った滓が放つ心の腐
った臭い。背中につぅっと汗が一滴落ちる。気持ち悪い。酷く、気持ち悪かった。
 「あぅ…はぁ…一杯ぃ…」
 恍惚の声。虚ろな視線。此方を見ていても、其の瞳の中にあるのは只の黒。覗き込んだ
枯れ井戸の底に広がり、横たわる、一切の黒。首に回していた腕を、そっと相手の胸の上
に滑らせ、腰に、汗と体液で泡立ち、白濁に塗れた陰茎の上を這わせ、自らの陰唇へと導
く。くちゃりくちゃりと膣の中に注がれた精液と自らの淫蜜とを指先でかき混ぜ、膣口を
縁取る襞に、厚ぼったい肉の唇に撫で付けては、擦り付ける。掬い取った一滴を下唇に滴
らせ、ねとりと黒ずんだ赤い舌でゆっくりと舐め取る。見せ付ける様に、自分の中に出し
た穢れの水を見せ付ける様に、祐巳は子宮の底から掻き出しては指先を舐めていた。
 祐麒は、視線を彼女の瞳に、唇に合わせながらも、徐々に焦点を外していった。霞む視
界、白く濁った唇、黒く濁った瞳、赤褐色の陽の光はもう夜の群青に紛れて、今はもうない。
 かたりと、後ろで音がしていても、気づかないまま。


Wednesday's child is full of woe,
Thursday's child has far to go,


 ふやけ切った指が幾重にも皺を刻み、身体を埋める湯の煙がじっとりと汗を滲ませる。
揺らぎながら立ち昇る白い霧。じきじきと頭が歪む。少しだけ息苦しい。
 松平瞳子は、温い湯に浸かりながら、先程目にした光景をうつらうつらと眠気で掠れて
いく頭の奥で反芻していた。夕暮れの赤、夕闇の青、吐き出された息の白、歪んでいった
何もかもを。如何して自分が其処に居たのか、如何して自分がそんな物を見てしまったの
か、如何して自分は其の光景に怯えてしまっていたのか。追憶の波紋には何も書かれてい
なかった。只、記録された映像を光に照らして目蓋の裏に映し出すだけ。例え其れがどん
な物であったとしても、無責任に、無慈悲に、無感動に、映写機の残酷さを持って只映し
出すだけ。
 誰も居なくなった教室。其の真ん中で、折り重なり、一つの肉塊となって蠢く影。小さ
く、其れでも小雨が窓を打つ様にはっきりと耳に響いた水の音。くぐもった声。そして、
僅かな扉の隙間から覗く自分の瞳を、確実に此方を見据えて、笑っていたあの顔。
あの顔は。
 「祐巳さま…」
 もう一人は背を向けていたので、顔は良く見えなかった。其れでも、其の背中に縋る様
に、貪る様に、しがみつき、宙を仰ぎながら笑っていたあの顔は、確かに福沢祐巳の物だ
った。敬愛する小笠原祥子の妹、紅薔薇のつぼみ、皆が憧れ慕う彼女の物。あの時の顔は、
自分の知っている顔とは違う。自分の知っている、あの笑顔とは違う、車に轢き潰された
狸の顔が其の歪みから笑っている様に見える、そんな笑顔だった。視界を覆う白い靄、瞳
の中の黒、其の中で滞った泥濘に浮く白濁色の泡の様に浮かんではぷちりと弾け、また浮
かぶ、夕闇の赤、教室の青、影の中で濡れながら空に穿たれた黒。べっとりと唾液に塗れ
た唇の隙間から覗く、歯の並び。制服のまま、豚の様に交わる其の姿が、何時までも何時
までも染み付いた耳鳴りの様に、頭の奥で反響し続ける。
 「あれは…本当に祐巳さまだったの…」
 間違える、筈など無い。心の何処かに巣食ったゲル状の自分がそう叫ぶ。あれは、間違
い無く、祐巳だったのだと。其れでも、瞳子は己の中の声を否定し続けた。否定したかっ
た。微温湯の中に浸けた手が、水の波紋で揺らいでいる。薄く上下する胸も、水の腕に抱
えられて少し凹んだ腹も、爪の伸びた足の先も、揺らぎ、掠れ、踊る様に歪む。前髪の先
から垂れた一滴が頬に落ち、甘痒い痺れを滲ませながら、顎へと滑る。
 そっと目蓋を閉じて、瞳子はバスタブの縁に凭れかかる。捩じれた針金の様に波打つ髪
が、はさりと首筋に其の身を横たえ、しとりしとりと脹らんだ腹から吸い込んだ水を吐き
出す。38℃の温もりが、じっとりと身体を包み、散り散りに心を蝕んでいく。温い、何も
かもが温かった。鼻を抜ける水蒸気、口の中に溜まる渇きの唾液、不愉快と痒みの刷毛が
体中を嘗め回す。
 「明日…」
 明日、確かめなければ。本当に、彼女だったのかを。でも、どうやって。直接本人に問
いただして、其れで如何すると。本当に彼女だったとして、其れで自分は如何しようと云
うのかと。違う。あれは、祐巳ではなかった。其の為の確認。其れでも心の底で声が叫ぶ。
確かめた其の先に、何があると云うのかと。
 「其れでも…」
 其れでも、自分は、確かめなければならない。信じて、いたいから。
 何をかは、良く分からない。


 「そう…瞳子ちゃんだったんだ、あれ」
 あの時と同じ茜色に染まった階段の踊り場で、窓に手を貼り付けながら祐巳は感情も無
くそう告げた。痴態を見られた事に動じもしないで、何の感情も無いままに、只窓の外で
風に当てられてがさがさと揺れる木々を光の抜け落ちた瞳で眺めるばかり。廊下で呼び止
めた時には確かにあった光は、感情の色は、何時も通りの彼女は其処にはもう無い。
 「祐巳…さま」
 瞳子は自らの唇が紡いだ言葉が、遠く階段の下へと流れていく様な気がした。少女達の
喧騒が犇めいている筈なのに、自分と祐巳とが佇む其の場所だけが砂に埋もれて隔絶され
ている。遠い、何もかもが遠い。足元がぐらついている。海の上に浮かべたゴムボートの
上に立っている様な、錯覚。やはり、そうだったじゃないか。胸の端に巣食った影がそう
嘲笑う。さぁ、欲しかった事実を知って、其の先に何を求める。
 「瞳子ちゃん、あんな時間まで何してたの?」
 未だ虚ろな瞳は外を向いたまま、抑揚の無い、押し殺す訳でもない、何の含みも揺らぎ
も見せない言葉を紡ぐ。彼女は如何してそんなにも冷静で居られるのだろうか。否、多分、
冷静なのでは無く、心が死んでいるから。彼女の裡に何が渦巻き、巣食い、其の身を横た
えているのか、其れは知らない。判る筈も無い。今まで自分が知っていた、少なくとも表
層の彼女から、廊下で声を掛けられた時に嬉しそうに此方を向いた彼女から、読み取れる
筈なんか無い。無垢な微笑み、そんな月並みで陳腐な言葉でしか、自分は彼女を知らない。
 「…部活で、残っていたんですわ」
 そう。息を吐くよりも尚細い声。其れでも、誰も居ない、赤銅色に染まった此の場所に
静かに染み渡る。何を言えば良いのだろうか。何を聞けば、自分は満たされるのだろうか。
放課後とは云え、学校でふしだらな行為に耽っていた事を怒れば良いのか、嘆けば良いの
か。祥子を裏切った、何よりも彼女の事を求めている祥子を裏切ったのだと罵れば良いの
だろうか。だが、其れは本当に裏切りなのだろうか。其れさえも、解らない程に、彼女は、
松平瞳子と云う少女は、無知だった。学校で交わる行為其の物が、余りにも其の細い肩に
は重過ぎて、其れ以上を考えるには至れない程に、無知だった。
 「瞳子ちゃん、女優さんだものね…」
 こつりと窓硝子に額を押し付ける。其の下に、何か素敵な物が眠ってでも居る様に。
 「ねぇ…瞳子ちゃん。女優さんって、どんな気分?」
 「…どういう意味です?」
 質問の意図を理解しかねた。ふわりとスカートの裾を翻し、祐巳は回る様に彼女の方へ
と向き返る。背中で腕を組み、自分の爪先を見つめながら、ぱたりぱたりと歩み寄る。夕
陽が横から舐めつけた其の姿は、血に染まった老婆の様で。瞳子は其のおぞましさから、
一歩向こうが地面を踏みしめる度に、一歩後ろへと引く。一歩、また一歩。追い詰められ
る様に、逃げまとう様に、後へと足を引き、下へと伸びる階段の端へと辿り着く。たんっ
と背中を壁が突く。其れでも、祐巳は止まらずに、彼女の元へと歩み寄る。何故自分は逃
げているのか、何が彼女を追い立てるのか、一つだけ解る事は、今目の前で俯いた少女は
福沢祐巳以外の何かだと云う事だけだった。足が其れ以上動かない。直ぐ下で口を開ける
階段に足を掛ければ良いと云うのに、其れは分かっているのに。彼女は、底から一歩も動
けなかった。
 息の掛かる程の距離、祐巳の右腕が緩慢に挙がり、瞳子の頬を撫で付けた。
 「舞台の上で、自分で無い自分を作るのって…どんな気分?」
 「な…何を仰っているのか…」
 「そのままだよ。そのままの意味」
 つぅっと顎まで指が伝う。確かに体温を持っている筈なのに、其の指先は氷の様で、凍
てついた痕を身体に残す。ふと離れ、また撫でる。ぞわぞわと背筋に冷え切った百足が這
い回る。
 「ねぇ、瞳子ちゃん。御伽噺をしてあげる」
 「おとぎ…はなし?」
 「そう、カメレオンの話」
 両手を瞳子の肩に乗せ、祐巳は唇の端を歪めた。あの時に、隙間越しに見た、笑顔。
 「あのね、昔、カメレオンを飼っているお金持ちの人が居たの。ある日ね、カメレオン
があんまりにも寒そうにしている様に見えたから、布団を買ってあげたの。とても高価な
布団で、金とか銀とか一杯編み込まれていて、いろんな色の糸で出来た、綺麗な布団。其
れで、包んであげたの」
 何が云いたい。話が飛び過ぎていて、彼女の心が読み取れない。何処に落ち着くのだろ
うか。此の言葉は、何を紡ごうとしているのだろうか。
 「そうしたらね、次の日の朝、死んじゃってたの。あんまりにも、色が多過ぎて、身体
の色をあれこれ変えている中に、疲れて死んじゃったの」
 「そ、其れが…今の話を何か関係がありますの?」
 今の、放課後に見せた状景と、女優の問と、何の関係が。
 「ねぇ…瞳子ちゃん。瞳子ちゃんから見て、私ってどういう人?」
 また、話が変わる。陽射で陰になって、彼女の顔ははっきりとは映らない。其れでも瞳
のある場所で濡れながら揺れる、昏い二つの穴だけは。
 「教えて、瞳子ちゃん。私って、どういう風に見える?」
 「そ、そうですわね」
 声が掠れる。渇き切った咽喉。粘ついた唾液が絡まる。眼を反らす事が出来ない。問わ
れるがまま、彼女は唇を震わせた。
 「甘ったれで、人に甘くて、少し抜けていて…」
 「其れで?」
 其れで。其の先を、口にする事は出来ない。優しくて、明るくて、元気で。つきりと胸
が痛んだ。何故、自分は彼女に昨日の事を尋ねたのか、何を確かめて、何を信じていたか
ったのか。其れが、少しだけ、解った。彼女が好きだから。福沢祐巳と云う一人の少女が
好きだったから。だから、信じたかった。そんな事は無いと、言って欲しかったのだと。
自分の知っている、福沢祐巳であって欲しかったから。知りたくなかった、認めたくなか
った。だから。其れでも唇は独りでに、心とは裏腹の言葉を紡ぐ。
 「…学校で…はしたない事をしてしまう様な、恥知らずの人ですわ」
 ぎりっと肩に掛けた指先に力が籠もる。顔を横に反らし、彼女が今どんな顔で居るのか
見る事を拒む。
 「そう…そうだね、見られちゃったしね。あれね、私の弟なの」
 「な…」
 唐突な告白に跳ねる様に反らした顔をまた戻す。其の先にあるのは、前と同じ、虚ろな
微笑み。三日月に曲がった唇の隙間から前歯が覗き、其れ以外は一切の影に沈む、あの。
 「瞳子ちゃん、一度逢った事あるよね。あの、祐麒。私がね、学校に呼んだの。結構、
簡単に入れちゃうものなんだね」
 くつくつと陰鬱に笑う。
 「もう家でするのにも飽きちゃったから、学校に呼んだの。誰かに見られるって思った
けど、まさか瞳子ちゃんにだったなんてね」
 「飽きた…って」
 肉親と、飽きる程にあんな事をしていたと云うのか。何の為に、其処に純粋な愛情が介
在しているとでも云うのだろうか。其れならば、如何してそんな顔で笑うのか。
 「実はね…私、祐麒の子供が出来ちゃったの」
 「な…」
 ずるりと肩から手を腕へと滑らせて掴み、ほらと、力無く垂れ下がった指先を自分の腹
へと押し付ける。不自然に脹らんだ腹、確かに其れは妊娠の兆候、其れもかなり経った後
の。丸く歪んだ下腹部は脂肪とは違う堅さを持っていた。
 「凄いよね、姉弟なのに子供って出来るんだね。知ってはいたけど、実際見ると少し驚
いちゃった」
 「ゆ、祐巳さま…」
 「此れが、私。皆が思っている様な純真で無垢な女の子じゃないの。自分の弟の子供だ
って作る、恥知らずな人」
 其れにね、鼻に掛かった甘たるい声でそう告げると、掴んでいた手を離し、瞳子の顔を
両手で挟み込んだ。
 「うぅ…!」
 自分の方へと引き寄せると、唇の上に自分の其れを重ねた。突然の口付けに動揺して、
少しだけ開いていた前歯を舌先で持ち上げ、口の中へと。前歯の裏、べとついた舌を舐り、
啄ばみ、吸い寄せる。息が苦しい。歯の先で、瞳子の唇を甘く噛みながらも、舌を差し入
れたは、愛撫を続ける。祐巳の唾で、自分の舌が潤っていくのが分かる。気持ち悪い。其
処には愛情も、情欲も無く、ただただ蛇に舐められている様な気持ち悪さしかなかった。
 顎を引き、余韻を味わう様に舌を伸ばしたまま、顔を離すと、細い粘ついた橋が彼女と
瞳子の唇の間に架かった。
 「女の子と、こんな事もしちゃう様な人なんだよ」
 笑う。祐巳はそう言って笑っていた。屍骸の歪みが見せる笑み。微笑みと言う錯覚。本
当は、苦痛に喘いでいる筈なのに、笑って見えてしまう誤謬。再び、唇を合わせようとす
る。瞳子は反射的に、其の身体を横へと突飛ばした。
 「あれ…」
 一つ、二つとふらついて、彼女は階段を踏み外し、そのまま下へと転げ落ちた。
 「祐巳さま!?」
 ごろりごろりと階段を転げ落ちる。其の下には闇。陽射も届かない奈落。スカートの裾
が車輪の様にくるくると回り、呆然としたままの彼女の顔が落ちていく。自分の手で、突
き落としたと云うのに、其の実感はまるで無く、転がる彼女の姿さえもまるで戯曲の中の
事の様。現実は、ドラマの様にスローモーションにはならず、あっという間に下の踊り場
で血を流しながら横たわる姿を彼女に映す。
 「ゆみ…さま」
 ぴくりと横たわった祐巳の腕が動く。ゆっくりと、歯車の錆びた機械の様に、持ち上が
る。其の手は、仰向けになったままの自分の身体を、下腹部を撫で、スカートの中へと埋
まっていく。
 「あは…あはは…どうしよう、瞳子ちゃん」
 中に入れていた手を、自分の目の前へと持っていく。花の様に開いた指は赤黒く彩られ
ていた。ぺとりぺとりと雫が祐巳の頬へと落ち、軌跡を描きながら耳へと落ちる。
 「死んじゃった、私の赤ちゃん。祐麒の子供が死んじゃったよ」
 其の声は、叫ぶでも無いのに何故か瞳子の耳へと滑り込み、刻まれる。此処からでは、
彼女が今どんな顔をして居るのかも知れない。其れでも、声は、声だけは厭にはっきりと
聴こえてきた。
 「あは…あははははは…あはははははははははははははははははは」
 かいだんのうえのこどもに きみははなしかけることができない
 なくことができるだけだ かいだんのうえのこどもがりゆうで
 「あは…あははははは…あはははははははははははははははははは」
 かいだんのうえのこどもに きみはなにもあたえることができない
 しぬことができるだけだ かいだんのうえのこどものために
 「あは…あははははは…あはははははははははははははははははは」
 かいだんのうえのこどもはたったひとり それなのになまえがない
 だからきみはよぶことができない
 「あは…あははははは…あはははははははははははははははははは」
 ただよばれることができるだけだ
 血に塗れ、笑い狂う薔薇を見て、瞳子は吐いた。


Friday's child is loving and giving,
Saturday's child works hard for his living,


 夕闇も夜の帳に侵されて、窓の外は群青色の重圧で埋め尽くされていた。制服のままで、
ベッドに横たわり、天井の染みを数え上げる。一つ、二つ、もう其の先は良く分からない。
夏も過ぎたと云うのに、厭に蒸し暑い。厚ぼったい布地の中で、じっとりと汗が膜の様に
這っている。少し眠い。垂れ下がった前髪をかき上げ、額に掌を押し付けた。
 あれは何時頃の事だったのだろうか。昨日の事より尚遠く、十年前より尚掠れ、振り向
けば其れが日常の風景に成り果てる程に昔々の話。反復が時間を磨耗させ、倦怠が感情を
摩滅させ、場景が色を失う程に遠い昔の事。高く低く鳴る耳鳴りを煩わしく思いながら、
眠るでも起きるでもなく、茫洋と灯りの落ちた部屋に犇めいた暗がりを眺めていた日の話。
元々が余り人の上に立って何かをする事に向いていない類の人間である事は承知していた。
其れは自分が良く分かっていた。殆どが雑用だとしても、其れでも生徒会の上に居ると言
う事だけで、地面に投げ出された魚の様な息苦しさを覚えさせるのも確かで。求めるべき
酸素は其処にあると云うのに、幾ら口を開け放しても吸う事も出来ず、静かに死が全身に
染み渡るのを待つばかり。飽和した疲弊が澱となって、底に溜まっていく。うず高く降り
積もった粒が、くるくると体中で溶けるでもなく駆け巡り、執拗に自分を追い立てる。
 そんな、心底疲れきっていた日の事だった。
 血の巡りに混じった粘着質のしこり。解毒の為の術を余りにも知らなかった。其れ程に
 愚かで、幼稚だったのかも知れない。身体は疲れ果てて居ると云うのに、眼は冴えきった
まま、心には依然として青黒い蛇が這い回る、そんな日の事だったと思う。
祐麒は、厭に重苦しい頭を抱えながら、むくりとベッドから身を起した。蜩の声が閉じ
きった窓硝子越しに聴こえる。水の中を歩く様な粘ついた圧力が足に纏わりつく。裸の足
に毛羽立った絨毯が撫で付ける。生温い刺戟、沈み込んでいく感覚。振り払う様に、地面
を踏み躙りながら、机の上に放り出したままの箱に手を掛けた。鍵のついた小さな木製の
箱。何時だかに父親が土産で買ってきた小物入れ。金具に手を掛け押し上げると、かきり
と金属が弾ける音を立て、焦茶色の箱が僅かに口を開けた。人差し指の爪で払い除ける様
に開く。暗闇に慣れ切った目に映るのは、掌より少し小さい紙の箱と使い捨てのガスライ
ター、黒ずんで元の銀が見えなくなった丸い皿。
 箱を取り上げ、軽く上下に揺すると細長い白い紙の筒が顔を覗かせた。其の先を、唇で
咥えるとすっと抜き去る。疲弊した心を紛らわせる為には、此れ以外に思いつかなかった。
隠れて煙草を吸っている人間は、割と多いのは知っていた。まさか、自分が其の内に取り
込まれるとは思いもしなかったが。
 一本抓み上げれば、もう用はないとばかりに紙箱を机の上へと放り投げ、同じく収まっ
ていたライターで先に持っていく。かきりと錆びた金車を廻すと、ちりちりと火花が散る
ばかりで火が起こらない。二度三度と廻しても、火は起こらず只虚しく暗がりに散る火の
雫を眺めるばかり。窓の外から零れる街灯の灯りに照らすと、半透明のプラスチックの筒
の中には、一滴のガスも無かった。
 其の様が、余りにも馬鹿馬鹿しかった。まるで、今の自分を何もかもが嘲笑うようで、
心底馬鹿らしかった。鼻から息を吐く様に小さく笑うと、空になったライターを机の上に
投げ捨てる。口に咥えたままの煙草を、歯の先で甘く噛みながら上下に揺らせ、からりと
窓を開け放った。外には灯り。他の家々の窓から零れる灯りが点々と散りばめられた夜が
広がっていた。父親は未だ仕事から帰る時間じゃない、母親は何処かへ出かけていた。何
処へだか、聞いた気もするが、其れも良く覚えていない。外殻になった日常の事は、もう
無いのと同じ。
 かちゃりと取っ手が回る音がした。あの日と同じ様に、姉と、祐巳と初めて交わった時
と同じ音。振り向くと、扉に凭れかかる、彼女の姿。
 「…おかえり」
 口が閉じたままだったからか、くぐもって巧く言葉にはならなかった。其れ以上に、既
に死にきった抑揚でしか、彼女と話す事が出来ないでいた。
 のたのたと蔦が足に絡んでいる様な頼りない足つきで彼女は暗がりの中を泳ぐ。其の姿
が、何時もと違う様相であったのは見て取れた。其れでも、彼女の身体を気遣う程の余裕
も、今の自分には無い。鬱陶しいとさえも、感じる。
 泳ぎ疲れて浮き輪にしがみつく様に、身体を摺り寄せて、首に腕を廻す。何の言葉も、
前置きも無く、唇を重ねてくる。此れも、何時もの事だ。何の感情も無い。最初は、最初
の頃は此れだけで少しは心が弾んだ気もしたのだが、もうそんな自分は何処かへ行ってし
まった。突き出される舌で、火のつかない煙草が下に落ち、足先に当たる。僅かに開かれ
た唇の中へと、蛞蝓の様に割り込んできた舌に、自らの其れを絡ませて、舐め上げる。く
ちゅりと音が立つ。唇の端から溢れた唾液が頬を伝い、顎へと落ちる。幾度も幾度も舌を
絡めては、吸い付き、互いの唾を贈り合う。
 「はぁ…ねぇ、お願い」
 解き、少し顔を浮かせ、懇願する彼女の瞳。視線も交わらない泳いだきり帰らない視線。
 祐麒は無言のまま、もう一度唇を重ねた。重ねながら、昔の事を思う。今と云う時を追
憶で塗り潰す。今と同じ様に、窓を開け放ち煙草を吸いながら眠り続ける街並を眺めてい
た日の事を。
 今と同じ様に、前置きも無く唇を重ね、動揺する自分を艶かしい笑いを浮かべたままで、
彼女は自分にこう告げた。
 ―祐麒、私の事好き?
 余りにも突然な事に、自分の唇は反射的に、ああと答えた様な気がする。其の言葉は、
言葉と云うのには余りにも意味も容も無い、呻きに近いものだった。確かに、自分は、祐
巳が、実の姉が好きだった。肉親として、というよりも、一人の少女として。もっと淡く、
時が経てば風食する様な茫洋とした感情ではあったのだが。そうだとしても、自分は彼女
の事が、確かに好きだった。
 ぐちゅりぐちゅりとお互いの口の中に泡立った唾が溜まり、顔を汚していく。飢えた猫
の様に互いの舌を貪り合いながら、祐麒は垂らしたきりだった手を彼女の胸元へと持って
行く。堅い繊維越しに彼女の決して大きくは無い胸の膨らみを揉み上げる。感触を楽しむ
事も無い。
 決められた行程に遵って行う儀式じみた、愛撫。
 形骸化した口づけ。
 冷め切った心が憂鬱に泣く。
 何時から、こんなにも、彼女との交わりが只の苦痛に成り果てたのだろうか。もどかし
そうに身体を揺すぶるのを感じ、祐麒はそっと背中に手を廻す。
 背中のカラーの下に埋もれた金具に手を掛け、じりじりと下に引き降ろす。たどたどし
かった仕草も今はもう慣れきっている。言い知れない嫌気、打ち消す様に荒々しくチャッ
クを引き降ろすと、彼女の身体から深緑色の殻を引き剥がした。首に廻された腕をそっと
外すと、するりと其の上を滑る様に制服が下へと落ちていく。尚も続いていた口づけから、
自らの舌を引き抜くと、垂れた唾液に沿って頬を、顎を、首筋を舐めていく。だらりと腕
を垂らしたまま、祐巳は愛撫を受けながら、荒く息を吐いていた。
 鎖骨を過ぎり、胸へと向かうと同時に、祐麒は背中に廻した手でブラのホックを外し、
肩紐を肩の上に滑らせた。暗がりの中で、色付いた彼女の胸。乳首は既に堅く固まってい
た。口全体で胸を呑み込む様に、含み、空いた方を手で捏ねる。口内に吸い込まれた肉に
舌先で円を描く。乳首の下に広がった輪に沿って、其の間隔を狭めながら。時折吸い、甘
く噛みながら、尚も舌で嘗め回しながら、歪ませていく。
 「んはぁっ!」
 肉の先が乳首の縁を撫で上げると、祐巳は水の混じった声で嬌声をあげた。みしりと何
時の間にか後ろに回されていた爪が背中を噛む。かりかりと厚い布を引っ掻く音。其の音
は、更なる刺戟を求めていた。尚も色付いた突起を撫でながら、胸の中へと埋めるように
押し込み、左右に揺さぶる。手で捏ね上げられる胸の其れと同じ様に。口を離すと、ぬら
ぬらと濡れた胸に、浅い歯の跡が刻まれていた。胸の谷間へと口をつけながら、徐々に滑
らせて臍へと舌を走らせる。鼻に自分の唾液の匂いが纏わりついてくる。鳩の排泄物の様
な匂い。味の無い飴の様な感覚。濡れた胸を揉みしだきながら、ぐにゃりとした肉を歪ま
せる。雨曝しになったボールを掴むのにも似た感触。産毛が厭にざらついていた。臍の穴
へと滑らせると、狭い穴の縁を舌で撫で上げる。以前の彼女ならば、厭だった此の行為さ
え、今は只喘ぎを吐くだけ。
 下穿きへと舌を滑らせた時に、鼻を不自然な香りが突いた。生臭い、匂い。顔を離し、
見つめると、下穿きがどす黒く滲んでいた。まるで、血でも流している様に。
 「祐巳…?」
 月経には未だ早い。幾度と無く身体をあわせていれば、時期位把握も出来てくる。其れ
なのに、下着に滲み込んだ黒は、確かに血の流れた証だった。何よりも、纏わりつく粘つ
いた匂いは。
 「あのね…死んじゃったの」
 「し…何がだ?」
 「赤ちゃん」
 何を彼女は言っている。祐麒が血の匂いと彼女のにちゃついた言葉に軽い酩酊感さえ覚
えた。何が、死んだと彼女は言った。
 「祐麒と、私の赤ちゃんが死んじゃったの」
 「お前…」
 知らなかった。否、知りたくなかった。そんな事実は、認めたくは無かった。そう、自
分は知っていた。彼女が受胎した事を知っていたのだ。其の時からだ、其の時から自分に
とって彼女との性交は、苦痛に成り果てたのだと。好きだった。確かに、自分は彼女が好
きだった。其れに応えてくれたのだと、最初は思いもした。だが。
 「どうしよう…祐麒。死んじゃったよ。あは。あはははははははは」
 此の笑い。此の笑顔。顔中の筋肉が壊死して、ずるずると皮膚が崩れ切った様な笑顔を
浮かべながら嬌声をあげる此の顔を見た時に、間違いだと知った。其れが、丁度、彼女の
腹が膨らみ始めた時と同じ。其の時に、彼女が、深く疲れていたのだと、気づいたのだっ
た。何にかは、自分が良く知っている。自分が其の捌け口を紫煙に求めたと同じ様に、彼
女は性欲へと、肉親との交わり、自分と同じ顔の、自分と同じ境遇の、自分と同じ普通の
中に咲いてしまった、鏡写しの薔薇の中へと逃げ込んだのだと。
 「ねぇ…祐麒…」
 優しく顎を撫で、首筋へと両手が落ちていく。見上げた彼女の顔が、今どんな顔かは影
となって見えない。只、双眸が、あの濡れた黒だけが揺らいでいた。
 「どうして、私生きてるのかな?」
 其の言葉を吐き終わると同時に、ぎりっと爪が首へと食い込む。息が出来ない。
 「赤ちゃん、死んじゃったのに…どうして私達、未だ生きてるのかな?」
 視界が霞む。意識が遠のく。何も、考えられない。
 静かに、心が、死んでいく。
 只、暗がりに咲いた濡れた華が、見守る中で。


 「はぁ…んはぁぁっ! ゆうきぃ…ゆうきぃ!」
 椅子に縛られた瞳子の目の前で、肉の塊が蠢いている。
 胃の中にあった何もかもを、昼に食べたクロワッサンも、玉子焼きも、いちごミルクも、
胃酸さえも吐き出して、そのまま意識の黒に沈んだ彼女が目覚めた時には、目の前で赤黒
い華が蠢く、此の場所に居た。
 言葉を忘れてしまった。何一つとして、紡ぐ事など出来なかった。只、がくりがくりと
縦に揺れながら、虚ろに視線を泳がせた、福沢祐巳の裸体を見つめる事しか。淫唇の奥か
ら溢れ出る、泡の浮いた、血の奔流が表面を伝いながら、白いシーツの上へと落ちて、華
を咲かせる様を眺めているより他に。
 「ああっ…んはぁああっ!」
 ぬちゃりと腰が蠢く度に、空気の混じった水が混ざる粘ついた音が響き、瞳子の耳へと
べっとりと貼り付いて離れない。口中に鉄錆を舐めた様な味が広がる。気持ち悪い。嘔吐
が込み上げる。此れ以上、吐く物など何も無いと云うのに、其れでも尚吐気が咽喉を伝い、
息を詰らせる。此の光景は、本当に現実なのだろうか。夢の中の幻影にしては、余りにも
質感を伴い過ぎていて、生々しく、禍々しい。
 「とうこ…ちゃん」
 腰を曲げ、気違いの様に腰を打ち振いながら、祐巳は笑う。ぎちぎちとベッドの軋む音、
部屋中に噎せ返る血と蜜の香、厭に白い蛍光灯の灯りが映し出す陰翳の無い薄っぺら色、
自分の名を呼ぶ声。
 「ねぇ…と…こちゃん。女優さ…って、どんな気分?」
 見せ付ける様にはしたなく股を開き、ベットの上に横たわった人形から生えた陰茎を膣
の中へと埋め込みながら、祐巳は問う。何時だかに訊いた問。数時間前なのに、とても遠
い、昨日よりも尚遠い、十年よりも尚掠れた、問を。
 「自分…ない、自分…そんなのを貼り付け…てる、女優さ…て」
 身を揺らせながら、祐巳は腕を伸ばす。縋る様に、追い求める様に、自分の居る場所か
ら少し離れた場所で座る瞳子に向けて、腕を伸ばした。振り払おうにも身体にはぎちぎち
と縄が食い込み、指一つ動かす事も出来ない。前のめりに、彼女の頬へと手を伸ばす。ぺ
りぺりと凝結した血がペンキの様に剥がれ落ち、瞳子の顔へと粉となって纏わりつく。首
を振るっても、逃れられる事は無く。
 「とう…ちゃん。みんなが…のぞむ、自分で居るのって、どんな気分?」
 「…祐巳さまは…そんなに苦痛でしたの?」
 身に湧き上がる不快感を、生理的嫌悪を噛み砕く様に、心に沸きあがる不愉快を、甘た
るい吐気を押し殺す様に、瞳子は漸く思い出した言葉を告げる。唇から漏れ出した、其の
言葉は、何処までも冷たく、自分の物ではない様だった。
 「そんなに…祥子お姉さまの妹である事が、紅薔薇のつぼみである事が、皆が望む憧れ
である事が、苦痛でしたの?」
 そんなに、壊れてしまうまで。
 ―女優さんってどんな気分?
 其の問が繋がる物が、其処だと云うのならば、其の結果が屍骸と交わるまでに彼女の心
をすり減らす物だと云うのならば、瞳子にとって思う事は、一つきり。
 「そんなに、厭なら、皆捨ててしまえば宜しかったのに。誰も、咎めたりなんかしませ
んわ。なのに、何故、貴女はそんなにも、其処にみっともなく、しがみついていましたの?」
 ぴくりと、頬を撫でていた指先が震えた。目の前にある笑顔、歪みきり、弛緩しきった
顔の皮がぴりぴりと痙攣する。
 「あ…たに…」
 腰の動きが、止まった。俯いて、俯いたままで、彼女の唇から零れるのは、何処か懐か
しい響きの声だった。
 「瞳子ちゃんに…何が分かるって云うのよ…瞳子ちゃんみたいに何でもある、お姫様み
たいな人に、私みたいな人間の何が分かるって云うのよ!」
 「分かりませんわ、何も。分かろうとも思いませんわ」
 崩れ落ちる様に、膝の上に手を乗せて、震える裸の肩を瞳子は冷めた心で見つめていた。
石の裏に潜んでいる、名も知らない羽虫を眺める様に。
 「祐巳さまは、只自分を可哀想がっているだけじゃありませんか。皆の期待になんか応
えられない、だから弟さんと交わる事で逃げて、子供まで作ってもまだ逃げて。どうなさ
るおつもりだったんです、其の子供を。貴女は其れで良いかも知れませんけど、生まれて
くる子供にまで自分の甘さを押し付ける気だったんですか?」
 死んだ様に動かなくなった、彼女の身体。爪がスカートを握り、黄色く染まっていく指。
 「私…貴女のそういう甘ったれた所が、大嫌いです」
 「だったら…」
 黄色い指先は徐々に其の色を白く変えていく。引き千切らんばかりに力が指先に籠もっ
ていく。其の震えは腕を伝い、肩を伝い、背中を伝い、全身へと巡る。
 「だったら、どうすれば良かったって云うのよ!」
 顔が跳ね上がり、彼女の濡れた黒い双眸が射抜かんばかりに瞳子を見据えた。ぼろぼろ
と窓硝子に叩きつけられた雨粒の様な涙が、目尻を伝い、頬を撫でる。
 「知りませんわ、そんな事。自分だけが辛いって思い込んでいる様な人の事なんか、知
りたくもありませんわ」
 激昂に震えた言葉、深く凍りついた言葉。互いの合間に染み渡る温度差が、軋みをあげ
て包み込む。軋みはやがて亀裂に代わり、瓦解へと紡がれる。祐巳の手が、瞳子の首筋へ
と走った。ぎりぎりと、先程自分の弟を殺した其の手で、彼女の首を締め上げる。苦悶の
色を浮かべながら、其れでも尚瞳子の瞳は死にはしなかった。
 「ま…た…お逃げに…なる…の?」
 「うるさい!」
 「わた…を殺して…も、何も…変わりはしま…んよ?」
 「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!」
 「女優…はね…自分を持って…る人にしか…なれませんの…あな…たみたいな…人には
…勤まりませ…んわ」
 「うるさいって言ってるでしょ!」
 するりと、食い込んでいた爪から力が抜ける。急に滑り込んできた湿った空気に、瞳子
はむせ返った。首に手を掛けたまま、祐巳は静かに泣く。
 「もう…分かんないよ…瞳子ちゃん」
 其の一言を、吐き捨てると、祐巳はのそりと立ち上がり、ふらふらと窓へと向かって歩
いていった。其の姿は、とても惨めだった。
 「もう…分かんないよ…」
 がらりと窓を開くと、秋風がするりと部屋へと滑り込み、湿気と血の匂いで濡れていた
空気が逃げて行く。虫の鳴く声。空に浮かんだ半月は、ボール紙で作ったみたいに、陳腐
な色をしていた。
 「…祐巳さま?!」
 瞳子が名を呼ぶのと同時、祐巳は其の身体を外へと投げ出していた。数秒の時間の後、
肉の拉げる重い音が虫の歌声に混じる。後に残るのは、只の静寂。
 「…馬鹿、じゃありま」
 言葉の最後は、涙が詰って、容にならなかった。


And the child that is born on the Sabbath day,
Is bonny and blithe, and good and gay.



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