+あるの日の状景+
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


 ゆらゆらと紐が目の前で揺れている。
 大きく、徐々に小さく、死に絶える虫の鳴動にも似た細かさで揺れ続ける。
 止まるのか、止むのか、分からない程に何時までも何時までも揺れ続ける。
 蝋燭が燃え尽きる為には、先ず半分燃え尽きなければならない。次に、其の半分。次に、
 其のまた半分。次に其のまた半分。何処まで溶ければ下に行き着くのだろうか。永久に燃
え尽きないまま、半分、其のまた半分と身を減らし続けてしまうのだろうか。此の世に永
遠はあるのだろうか。
 祐麒は、半分ほどだらしなく口を開いたままで、ベッドに腰を掛けていた。
 声にならない言葉を洩らす為に、時々死に際の蛙の其れに似た動きをする、発狂した唇。
 窓の外には溶けた鉄の色と粘性を持った夕闇が、口を開けて哂っている。どろりとした
 光が窓枠にへばりつき、床の上を舐める様に這い回る。
 子供のはしゃぐ声。夕餉の支度をする匂。黄昏の浅い闇が世界を呑み込む色。
 全てが万華鏡に詰められた羅紗の様にぐるぐると彼の視界には回りながら、伸び、縮み、
渦巻き、窓の外から内へと流れ込んでくる様な気がした。
 ゆらゆらと揺れていた紐が止まる。視界の隅に伸びた一筋の影。
 滑り落ちた砂は、もう元の器には戻らない。
 手品師の消える箱に入れられた子供と、再び現れた箱から出てきた子供が同じ子供では
ない様に。誰も気付かない、手品師すらも、母親でさえも気の付かないまま、子供は変わ
ってしまったのに。
 もう、何も、戻る事はない。
 こうして世界は少しづつ歪んでは、捻じ曲がっていく。
 祐麒は、ぼんやりとそう思った。


 祐麒は自分の座る席越しに見える景色に気を取られていた。というよりも、窓
の外にある風景越しに見える彼自身の中にある曖昧な何かに気を取られていた。
 「…きち」
 其れは強いて言うならば、水を含ませた布を紐に吊るした様な物。じとりじとりと地面
に染みを作る水滴の様な、緩慢だが確実な、緩やかだが石をも穿つ程の、一つの思い。鍵
の掛かった小箱から漏れ出す、甘い香のする煙。口の中で甘く、腹の底で苦い、一巻きの
紙束。釣られた魚の喉にかかる曲がった針の様に、思考の縁に食い込んだままの、何か。
 「ゆ…ち」
 自然と、額に皺が寄る。打ち消す様に、忘れる様に、最初からそんな物は無かったのだ
と思い込ませる様に。皺が寄る。額が歪む。其れでも、瞳の奥には尚も居座り続け、見る
景色の端々に混ざり込む。
 目を瞑っても、目蓋の見せる暗い淵の影に。
 耳を閉じても隙間を過ぎる空気の海に。
 蹲っても膝と腹が造る闇の中から。
 ―心を閉ざしても蓋の合間から零れる一条の光の中に。
 消えず、絶えず、真綿で首を絞める様に、自分を縛りつけ、離してはくれない。
 誰かに言える物でもない。其れ程、明確な物ではない。
 其れでも、消えず、絶えず…
 「ユキチ!」
 耳元に響く声の大きさが、彼を此方へと引き戻した。
 見えていたが、見えていない眼が開かれる。
 見ようとしていなかった現実が、目の前で肥大していく。
 目の前にはアリスが机の上に手を着き、身を乗り出して此方を睨んでいた。
 蝉の、ぎちぎちとした鳴声。
 運動部の喧騒。
 夏の日特有の、忙しない、音。
 「どうしたの、さっきからぼぉっとして?」
 「あ、ああ…」
 腕に弱い痺れ。頬杖を突いていた残り香は、どうしてか今迄感じた中で一番忌まわしい
物に思えた。じっとりと手の平に滲む汗を、制服のズボンに擦りつける様に拭き取ると、
姿勢を正し、目の前に置かれた書類の束に目を通す。
 字が躍る。滲む余白。白と黒とのモザイクが紙の上で蠢いている、錯覚。
 「…大丈夫か、ユキチ?」
 「大丈夫だ、大丈夫…少し疲れてるだけだから」
 怪訝そうに此方を窺う小林に、軽く手を振って答える。
 「で、何の話だったけ?」
 日常に埋もれてしまおう。文化祭、体育祭、其の他諸々の雑事の中に埋めてしまおう。
倦怠は、良くない。倦怠は、何時だって一番見たくない物を、冷凍庫の奥で凍らせてお
いた筈の物を、目の前に並べ始める。溶けて、腐り、形を失くす迄どろどろに放っておき、
指を差して嘲笑う。
 言葉が飛び交い、部屋中を犇めき、目の端に浮かぶ何かを閉じ込めてしまえるように。
 今は、只、此の日常へと沈んでしまおう。
 蝉の声が止み、部屋の声も止み、蒸し暑い沈黙が、訪れるまでは。
 「さて、と…」
 溜息と共に小林が、紙束の端を机に打ち付ける。
 「もう、今日此れ位で御終いにするか?」
 時計の針は二時を指し示していた。
 「おい、まだ美術部のパネル展示の配置とか決まってないぞ?」
 いんだよ、と呟く声には、何処か諦めの色が含まれていた。
 「隣で生徒会長さんに死にそうな顔でやられても、纏まる話も纏まらないしな」
 「…!」
 そんなに自分は酷い顔をしていたのだろうか?
 他の皆も、心配そうに、何処か鬱陶しそうな表情をして、此方を見ていた。
 頭がぐらつく。再び鳴り始める蝉の声が、突き刺す様に耳へと入り込み、煩わしさが、
今生きている事に対する煩わしさが全身に鈍い血の巡りとして駆け巡る。
 「すまない…」
 喉が枯れ切っていて、空気の漏れる音にしか聴こえない程に掠れた声で、短く言うと祐
麒も自分の荷物を纏めた。手の先がかたかたと揺らめいて見える。視界がぐらついている
のか、手が震えているのか、両方なのか、どちらでもないのか。
 其の判断は、彼には出来なかった。
 「ユキチ…本当に大丈夫なの? 顔真っ青だよ?」
 心底心配そうなアリスの声も今は遠い。
 「少し働き過ぎたか」
 「運動部程、体力も無いしな」
 先輩二人の少しずれた発言も今は遠い。
 何もかもが遠い。遠過ぎた。
 でも、一番遠いのは、自分と心の距離なのかも知れないと、停止しかけた頭が囁く程に
小さく呻いていた。


 がたりがたりと電車の音が足元から這い上がってくる。
 車両のドアに右肩を凭れて、ぼんやりと線となって流れてゆく景色を眺めていた。
 他の皆は何処かに寄るというので、自分の周りには誰も居ない。自分を知る人間は誰一
人として、居ない。多くの人に囲まれながらも、孤立はするもの。
 空白となった思考にまた染みが浮き上がってくる。一つ一つ浮かんでは、繋がり、膨
らみ、一つの容を象っていく。様々な表情をくるくると走馬灯の様に映し出しながら、
影が一つの容に、一人の人間の容へと。
 ―違う!
 何が違うのかも分からない。只、否定したかった。ベルが鳴ったら、涎を垂らす犬と同
じ。頭に思い浮かぶ全てを、思い浮かぶ先から否定し続ける。否定の上に否定を重ね、其
の内、何を否定していたのかも忘れる程に。
 ―違う!違う違う違う違う違う違う!
 頭を振り、ドアの透き通った板へと額を押し付ける。
 ―違う…俺は、俺はそうじゃないんだ…
 唇から漏れ出す言葉。誰にも聞き取れない、自分だけの、自分の為だけに吐かれた只一
つの言の葉。
 顔を上げると、さっきまで押し付けられていた硝子に粘ついた水と一緒に白い染みがぼ
んやりと浮かび上がっていた。時間を掛けてゆっくりと、砂時計が落とす砂の様に早く、
輪郭が収縮し掻き消えていく。後には、蛞蝓の這った跡の様な塊。
 ―俺は、何を考えているんだ?
 自問。学校でも、電車の中でも、否気が付けば何時の間にか尋ねていた問。
 何を考えている?
 何が自分を此処まで惑わせる?
 答えなど ―既に出ているのではないのか?
 きりきりと奥歯を噛み締める。噛み砕く。何もかもを、視界の隅に映っては消えないま
まに、しこりとして残り続ける何もかもを。飲み込まないように、自分の物としてしまわ
ないように、躯中を駆け巡らないように。
 息を吸う。
 肺の中に滞った穢れた空気と良く混じるように。
 吐く。
 肺の中が空になってしまう程に大きく、長く。
 また白い染みが目の前で大きく膨れ上がる。
 目の前に移った自分の顔は、病的に青ざめていた。
 ―そりゃ、心配もするか…
 自嘲。何度目かの吐息。
 縮まっていく染みを大きく、濃く、広げながら、祐麒は虚ろな目で外を見下ろしていた。
 白い影に隠された自分の顔。其の上に、指を這わせる。何も意図などしていない。図形
でも何でもない、只の線描の群れを。忘れるように、忘れるようにと。
 出来上がった線描。
 無意識の産物。
 でも、其処には一つの名前。
 ―祐巳、と書かれていた。
 かたかたと顎が上下している。ぶるぶると腕が震えている。ぐらぐらと視界が歪む。
 勢い良く窓硝子に手を突くと、そのまま急いで下へと滑らせる。手の平に感じる、生温
い吐息の熱を忘れてしまう程に早く。
 水滴が線となって貼り付いている部分だけ、微妙に映る物が歪んでいた。
 外の景色も、自分の顔も。
 其の顔は、何処か薄暗い微笑を浮かべている様に見えた。
 窓から背を向ける。
 もうすぐ駅に着く。着いてくれる。
 そうすれば、家に帰れる。自分を部屋の中に閉じ込めたままに出来る。
 心を凍らせたまま、怠惰に眠り耽れば良い。
 次の倦怠が、掘り起す其の時まで、眠らせてしまえば良い。
 アナウンスが聴こえる。眠たそうな、くぐもった声が次の停車駅を告げる。
 次で、次で降りれば良い。
 祐麒は目蓋を閉じた。


 薄暗い廊下を動物園の熊よりも緩慢に歩く。
 家には誰も居なかった。
 誰一人の声も聴こえない。
 靴下越しに伝わる生温い感触。家中を覆う重苦しい湿気。喉の奥が焼付く。
 ふらふらと洗面所まで、夢遊病者の足取りで歩き続ける。届かない。未だ届かない。
 大して中身も入っていない鞄が、今は酷く重たく感じる。汗で滑り、不必要に込められ
る力。食い込む錯覚。肩から腕が?げ落ちてしまうそうな。其れでも歩くより他に無い。
機械的に、反射的に、全てをこなしてしまわなければ。そうでなければ、自分が食い殺さ
れる。自分自身に食い殺される。
 やっとの思いで洗面所へと辿り着いた。
 億劫そうに腕を持ち上げ、蛇口へと叩きつける。
 きりきりと音が自分より他に誰も居ない洗面所に響き、水が流されていく。
 倒れ込む様に、落ちる様に上半身を曲げ、手で水を掬い取る。生温い。此れも生温い。
 何もかもが半端な温度で滞っている。夏とは、そういう季節だ。
 「太陽の照りつける風景はけっして陽気なものではない、か」
 読書感想文の為に読み散らした本の中に出てきた言葉を、薄く笑いながら呟くと手の中
に溜まった水の中を顔へと擦りつける。何度も何度も掬っては擦りつけ、掬っては擦りつ
ける。洗い落としてしまえば良い。浮いてきたら、何度でもこそぎ落としてしまえば良い。
 垢も、汗も、脂も、溜まりきった慾動も。
 目の中に水の入らないように、堅く目蓋を閉じたまま、手探りでタオルを探った。何時
も掛けてある場所にあった布は、水気を吸って、粘りつく様に手に纏わりつく。其れでも
構わなかった。通過儀礼。只の通過儀礼だ。
 先ほど水でしたよりも強く顔へと布を擦りつける。
 水垢の臭いが鼻を突く。噎せ返る様な、厭な匂いだった。
 吐き捨てる様にタオルを投げつける。空気に煽られてゆったりと重力に従いながら落ち
ていく、くすんだ青。
 顔を上げると、其処には鏡。
 ―我ながら酷い面だな。
 別段、何も普段とは変わりない顔。
 其れでも、瞳は、死んだ魚の色をしていた。
 口の端を歪める様に笑う。
 でも、鏡は自分と同じ様に苦笑いは浮かべてくれなかった。
 其処にあるのは、あの笑顔。花の開く様な、そんな。
 ごくりと喉が鳴った。
 其処に居るのは病人じみた自分ではない。其処に立っているのは、鏡越しに此方を見て
いるのは、自分と似た顔をした、姉の顔。
 一歳しか差の無い、あの。
 錯覚だ。勘違いだ。何もかも、夏の、夏の蜃気楼みたいな物だ。
 呆然と鏡の前で立ち尽くしながら、幾度も否定を繰り返す。
 夏は全てを腐らせる。どろどろと元の形も分からない程に腐敗させる。
 皆、夏の所為だ。
 また倦怠が、後ろで口を開けて嘲笑う。
 見たくない物を。思い出したくない物を、自分の前へと並べ立てている。
 忘れるなと。決して忘れるなと。
 お前は、此の同じ顔の、血の繋がった実の姉を。
 祐麒は逃げる様に其の場を後にした。
 背後の鏡に映った虚像も一緒に、そちら側の世界に逃げ込んでくれと祈りながら。


 部屋へと滑り込むと、制服のままでベッドの上に傾れ込む。
 掛け布団は既に干されているのか、剥きだしのままのマットしかなかった。其れでも構
いやしない。スプリングの硬さが頬に当たる。みしりみしりと音を立てて、撓み、歪み、
縮んで、押し返してくる。自分の視界を閉ざす為に、バネに逆らう様に横顔を押し当て、
マットの表面を覆う布を強く掴んだ。巧く力が入らない。
 半分になった視界。
 自分の左腕で埋め尽くされた視界。
 浅黒い制服の布。粗くなった生地。細い腕。
 薄っぺらい自制の心。叶えてはいけない物。
 分かっている筈だ。何もかも、分かっている筈なのに。
 目の前が溶けていく。眠りの帳が降りて来る。沈み込んでしまおう。考えないように、
何もかもを、此の眠りの沼へと。
 蝉の声。責め立てる様に泣き喚く蝉の断末魔。
 一週間の限りを嘆き悲しみ、配偶者を追い求める、慟哭。
 ひりつく喉。渇き切った舌。唾液で粘ついた口。不快が口元に蹲っている。
 どろどろと溶けていく思考回路。何も考えられない。其れでも依然として冴え渡る目。
 一番眠りに近い時に、人の思考は何故か取り止めも無く、流れてしまう物だ。
 ごきりと霞んでいく世界の何処かで歯車が噛み合った音がした。
 あれは、何時の時だったろうか?
 初めて、自慰を覚えた時の事。
 他の誰もが、グラビアやら、拾ってきたエロ本で済ます物を、自分だけは違っていた。
 最初に思い浮かんだのは祐巳の肢体だった。
 薄い胸。滑らかな首筋。薄絹の様な質感を持った太股。交錯し続けた、姉の姿。
 姉の顔を思い浮かべながら達した後、栗の毬を飲み込んだ気分になったのを覚えている。
してはならない事を、越えてはいけない物を一つ跨いでしまった罪悪感。事の終わった後
は、今と同じ様に布団に潜り込んで、一人悶え苦しんでいた気がした。頭を抱え、膝を折
り曲げ、一塊の肉となって、がたがた震えていた。何かに許しを乞うていた。赦して貰い
たがっていた。
 一人だけの懺悔。
 眠れないままの、只時間だけが蝸牛の歩みよりも遅く過ぎていく、牢獄の中。
 そう、あれが最初だった気がする。
 あの日からずっと、眠らせておいた筈だった。
 凍らせてしまった筈だった。
 其れも、夏が溶かしてしまった。あの、黒ずんだ陽の光が溶かしてしまった。
 只の淡い恋心であった筈なのに。シロップを入れ損ねた、ジュース程度の物だった。
 今は、どうなのだろうか?
 あの頃と何が変わったのだろうか?
 変わっていない。自分は変わっていないのだ。
 変わったのは、向こうなのだ。
 祐巳の端々に、他の誰かが居続けた頃から。祥子さんの妹になった其の日から。
 押し留めたままにしておいた泡が、自分の中で青黒く腐り始めていった。
 絶対に得られる事の無い物を、誰かが横から掠め取ってしまった。
 祥子さんが悪い訳でもない。祐巳が悪い訳でもない。自分も、悪くは無い筈だ。
 悪いのは、誰だ?
 悪かったのは、一体誰だ?
 ―答えは、知っている。既に知っていた。
 倦怠が、自分の体の半分を食い殺し始めている。ありもしない妄想を、勝手に組み上げ
ているだけだ。そうに決まっている。疲れているんだ。自分は疲れているから、こんな事
を思ってしまうのだ。
 一番悪いのは、自分以外の誰でもないのに。
 其処で、緩やかに眠りが全てを呑み込んでしまった。
 倦怠と一緒に、全てを。


 夢を見た。
 祐巳を犯す夢を見た。
 泣き叫び、暴れ回る祐巳を押さえつけて、無理矢理に蹂躙する夢。
 制服姿の彼女を背中から押さえつけ、後ろ手に縛り上げる。二つに縛った髪が激しく揺
れる頭をマットへと押し付ける。
 スカートの中に手を差し入れ、一気に下着を引き摺り下ろす。
 そして…


 其処で、目が醒めた。
 喉の渇きは、一層酷くなっていた。唾液も、一塊の何か別の物になってしまっている。
 ぎちぎちと締め付けられている頭を抱える様に、祐麒は目を覚ました。
 窓の外には既に夕暮れ。蝉の暴力的な泣き声も、蜩のか細い声に変わってしまっていた。
 体中が軋む。僅かに動かすのも大儀で仕方が無い。其れでも、どうにか身体を起し、ベ
ッドに腰掛けた。べたついた全身。寝汗を吸ったシャツやズボンが、気持ち悪い。全部を
脱ぎ捨て、Tシャツと下着以外に何もつけていない格好になった。
 ―下も着替えた方が良さそうだな。
 茫洋としたまま、不意にそう思った。
 其の時だった。
 こつり、こつりとドアを叩く音。
 「祐麒?起きてる?」
 姉の声。飴を溶かした様な、甘く響く声が、向こうから聴こえた。
 「あ、ああ」
 「あのね、お父さんとお母さん、ちょっと出掛けてくるから遅くなるって」
 無邪気な、というよりも何の疑いも無い、此方の煩悶など何も知る筈の無い無防備な声。
 「そ、そう」
 巧く声が出せない。首でも絞められている様だ。
 「…ねぇ、祐麒、ちょっと入るよ?」
 いつもと声色が違うと思ったのか、そう言ってドアノブを回す音がした。
 「ちょ、待て、祐巳」
 今は不味い。下着姿だからというのもあるが、其れ以前に今の自分は、今の自分は余り
に無防備すぎる。目覚めと一緒に倦怠が未だに残っている。あの夢の残り滓が未だ頭にこ
びりついている今は。
 がちゃりと軽い音がして、ドアが此方へと開いていった。
 制服を脱ぎ捨て、シャツとジーンズだけになった姉の姿が現れる。
 「祐麒…だいじょ」
 気遣いの言葉が途中で凍るのが分かった。
 目の前には、下着姿の弟が、しかも下穿きの前は盛り上がり、布を持ち上げていたから。
 「ご、ごめ…」
 目を手で覆いながら、外へと逃げ出そうとする。
 其の姿を見て、何か胸の奥が締め付けられていた。
 今の自分と姉との距離。
 踏越えてはいけない一線に留まり続ける自分を、見ないように、避け続ける姿に思えた。
 このまま、彼女は誰かの物として収まってしまうのだろうか。いつか、結婚して、幸せ
な家庭を築き上げるのだろうか。
 あの時と一緒で、祥子さんの物になったあの時と同じで、顔も知らない誰かの物に。
 倦怠が、口を開けて笑っている。
 其れでも、お前は何も見ないままに、心の奥で凍らせたままに、夏になれば腐る程度に
しか隠しておけない癖に、只誰かの物になっていくのを指を咥えて眺めているのかと。
 笑う。嗤う。哂う。嘲笑う。
 げたげたと笑う声は、蜩の鳴声に似ていた。
 気がついた時にはもう、逃げていく彼女の腕を掴んでいた。
 「へ?」
 何が起きるのかも、何が起きているのかも理解しないままに、祐巳は力任せに部屋へと
引きずり込まれた。
 ―案外、軽いんだな。
 冷え切った心は、もう自問など繰り返す事も無い。
 彼は食い殺された。
 倦怠に、ではない。
 自分自身が、ずっと仕舞ったままにしておいた、糜爛した心に。
  自分自身が、ずっと仕舞ったままにしておいた、糜爛した心に。
 「ちょ、やめ…祐麒!」
 姉の身体を今まで自分が横たわっていたベッドの上へと投げ飛ばす。仰向けに倒れこん
だ祐巳のスカートが捲れ、白い太股が露わになる。
 夢の中で見た景色が、硝子に映りこんだ顔と外の景色が被さる様に、二重合わせになっ
ていく。重なり合った輪郭、ずれていく理性、白い闇が頭を覆う。
 「ゆ、祐麒?」
 声すらも、もう遠い。腹の底に蟠りが、部屋を染め上げる夕陽と同じ憂鬱な茜色の蟠り
がごとりと音を立てて転げ回る。生温い。夏特有の、生温さが溶けている。
 言葉などもう忘れてしまった。戸惑いも忘れてしまった。
 あるのは只、奪われた物を取り返そうとする、子供の悪意。
 左手が、彼女の口の中へと滑り込み、舌を人差し指と中指が摘み上げる。
 「げぅ!ふぐぎ!」
 言葉などとうに忘れていた。互いの喉から漏れる荒い吐息しか聴こえない。
 蜩の声も、子供の喧騒も、何もかも。
 指を姉の口の中に差し込んだまま、首筋へと舌を這わせる。塩の味。汗の香。噎せ返る
様な、甘い、匂い。ゆっくりと舐め上げ、耳の裏、耳たぶ、そして内側へと徐々に滑り込
ませていく。
 「ふっく…ふっ!」
 拒絶の音に時折別の色が混じる。
 そのまま、丹念に耳を舐め上げ、穴の中へと舌先を入れていく。入口に拒まれて、宙を
掻く舌の先。ざらりとした触感。一度、舌を離し、すうっと荒くなった息を唇で細めて、
奥へと流し込む。
 指先に、水滴が溜まっている。唾液とは違う、肺から流れ出た荒い水の息。
 祐巳の頬が薄く染まっている。
 女は犯される時でも、感じる事が出来る。其れは、別に感情的な問題でも何でもなく、
男が望んでいるような事でも何でもなく、只生命の危機を感じての事だ。自動的な、空っ
ぽの缶を叩いて響く、木霊。そう、誰かが言っていた。本当かどうかは知らない。
 スカートの中に手を入れ、太股を撫で上げながら、其の付け根に、間にある場所へと滑
り込ませていく。汗ばんだ肌がじっとりと手に吸い付いてくる感覚。白絹を撫でる感触。
 握る様に、引き千切る程に、強く内股の肉を掴む。
 必要なのは、愛し合う事じゃない。彼女の体に自分が居た事を、今此の時に居たという
証拠を、刻み込む事。
 腰にかかる、下着の端を掴み、一気に引き摺り下ろそうとした。
 何をされるのか、混濁し続ける意識の中で漠然と悟ったのか、不意に激しく足をもがき
始める。上手く、脱がせる事が出来ない。
 拒絶、されていた。其の事さえも、今の彼には分からない。そんな言葉はもう、持って
いない。口の中から指を引き抜くと、彼女の身体をうつ伏せに返し、頭を押さえつける。
 ぐぅとマットに押し付けられ、くぐもった咳と嗚咽の声がベッドの中へと沈んでいく。
スカートを捲り上げると、お腹を抱え、腰を上へと持ち上げる。自らの下着も脱ぎ去って、
彼女の下着に手をかける。ずるりと抵抗無く、布が膝まで下がり、祐巳の丸い尻が夏の外
気の元に晒される。
 頭を押さえつけたまま、肉の割れ目に自分の唇を持っていき、左手で広げるように掴み
ながら、菊穴に口づけをした。一本一本の襞に沿って、舌を這わせる。噎せ返る匂い、汗
が滞った独特の臭気が鼻を突く。アヌスの奥へと、舌を突き入れる。
 「ぃゃ…」
 涙の混じった声。自分の汚い部分を舐められる事への羞恥と、実の弟に裏切られている
事への嘆きとが入り混じった、泣声。
 舌を引き抜くと、割れ目に沿って更に下へと、彼女の一番隠しておきたい部分へと進め
る。陰唇をなぞりながら、渦を描く様に膣の入口へと徐々に赤い舌が近づいていく。発酵
したチーズの様な匂い。本で読むよりもずっと動物的で、生理的な、香。肉芽に達すると、
覆う皮を、花弁を毟る様に下で剥ぎ取っていく。露になった粒。歯を当てながら、執拗に
舌で舐っていく。
 「ふぅ!うううう!」
 甘い刺戟が彼女の体を蝕んでいく。縮こまった穴を抉じ開け、入口の襞を舐め上げる。
味など、何もしない。感じない。作業の様に、舌で犯していく。
 祐麒の唾液と彼女自身の出す体液で、秘部は濡れそぼっていた。
 もう、良いだろう。
 祐麒は、腰を起し、彼女の中へ…
 其処で、動きが止まっていた。何時まで経っても、何もされない事に疑問を抱いたのか、
僅かに顔を動かして、此方を窺おうとする目。
 祐麒の陰茎は、先ほど下着を押し破る程に脹れ上がっていたのに、今はもう萎えて、産
まれたばかりの子犬の様に縮こまっていた。
 懸命に空いている手で擦り上げても、ぴくりともしない。
 摩擦の痛みと痒みしか、感じない。
 「畜生…畜生!」
 祐巳の頭を押さえつける手から力が抜ける。祐麒は自分の陰茎を気でも違ったかの様に
擦り上げながら、俯き、呪詛の言葉を吐く。
 「ゆ…うき?」
 赤く充血した彼女の目が此方を向いている。どんな顔をしているのだろうか。哀れみだ
ろうか。其れとも、軽蔑だろうか。どちらにしろ、同じ事だ。
 何が起きているのか分からないまま、本能的にベッドから猫の様に抜けだそうとする姉
を、只呆然と見送った。
 
 
 ゆらゆらと揺れていた紐が止まる。視界の隅に伸びた一筋の影。
 蜩の声。名前も知らない鳥の声。子供達の声。
 ―もう、戻らない。
 ぼそりとそう呟く。もう祐巳は昨日までの様に自分に笑いかけてはくれないだろう。彼
女の事だ、両親には言わないかも知れないだろうが、そんな事自体に意味は無い。価値も
無い。
 只、遠くで憧れているだけの毎日は、もう戻らない。
 求めてしまったから。其れ以上を、彼女が自分だけの物になる事を願ってしまったから。
 夕陽の影となって黒ずんだ輪が、目の前に浮かんでいる。窓の桟にかけられた紐の輪。
 椅子の上に立ち、其の端に、手をかけると、ゆっくりと首を中に入れた。
 結局、何が悪かったんだろうか。
 同じ問。何時だかと、同じ問。もう答えの分かっている自問。
 すぅっと口の端が歪む。
 そのまま、勢いをつけて、椅子から飛び降りた。
 ―何もかも、此の夏が悪い。
 そう、呟きながら。


-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------