春 夏 秋 冬
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―今汝は、汝の生まれの家にいる。
咲き誇る桜の花の合間に揺れる冬の終わりは、ありふれたロザリオの色をしていた。
風が一滴一滴と、細長い薄紅色の花びらを地面へと降り散らし、水の中で偽りの粉雪が
舞う玩具の終わりが見せる惨めったらしい沈黙で満ちた視界の中で、ゆらりくらりと白よ
りも尚白く、雪よりも尚凍えた指の先にかかった、一つの安物の十字架がくすんだ銀色を
滲ませて藤堂志摩子の視界の隅に揺れていた。
少女は風に撫でられて、泣きながら白き雫を溢す一本の桜の下、がさりと音を上げ揺れ
る黒ずんだ枝を、芯だけを置き去りに落ち狂う花びらを、其の先にある桜自身の悲哀さえ
も見透かす様に、乱れ流れる長い髪を押さえるでもなく、幹に凭れかかったまま視線を上
へと泳がせる。彼女と桜、其れより他に何も無いかの様に、全てを忌避し廃絶する、高潔
で純白な、天使と云うには余りにも。志摩子の心に浮かぶのは、穢れ無き白を前にした時と
同じ、精巧に描きすぎた神の絵を前にした時と同じ、恐ろしいの一つきり。
弄ぶでもなく、指に引っかかったままのロザリオが、指と自身を繋ぐ鎖の長さに耐えか
ねて、風に踊る其の様に視線を奪われたきり立ち竦む。一切の動きが縫い止められて、桜
の斑で埋まる世界に縛られたきり、指先一つ動かす事も侭ならない。くらりくらりと揺ら
めいては軌跡を残す銀色だけが唯一の色、唯一の生の様にも感じられ。此れまでに見た事
が無いというよりも、存在する事さえも知らずに居た少女が桜の下で空を仰いでいた。
緩やかに風が止み、桜の雨も止み、ロザリオも緩慢に動きと止め、そして、少女が此方
へと顔を向けた。白い陶器で出来た人形の顔、微笑みもせず嘆きもせず、感情と名づくる
何もかもが抜け落ちて、唯の殻と成り果てた其の顔は、左目に当たる部分に、赤茶色に変色し
たガーゼが貼りつき、其の周りに広がった黒ずんだ染みは肉自身が腐り果てているかの様
な色をしていた。昔見た道化が顔に施した対照的な化粧の様に、何処か現実から切り離さ
れた作り物じみて、其の事が一層に美しく、醜い。非対称の対称、不釣合いな均衡、ずれ
過ぎた位相が元に戻る、柔らかな曲線を描く我が子の腕を口に咥え、化け物じみた笑顔を
浮かべるサルトゥヌスにも似た、そんな顔だった。彼女は何を腹へと埋めて、何を思い、
何を吐き下すのだろうか。掌に圧し掛かる革の鞄の重み、常ならば気にも留める
事の無い其の重みが、今は自分の身体ごと軋ませる。おぞましい桜の中に立ち尽くし、
何の揺らぎも無い一つの瞳は何も映さないまま、小さな信仰の欠片を弄ぶ、顔の歪んだ少
女の姿は、雪景色の中、翼を閉じて死に絶える雷鳥の様で。
少女は、只じいっと志摩子を見つめ、そして穏かに笑った。
「ごきげんよう」
リリアン特有の其の挨拶さえも、彼女の口から零れた瞬間に酸素に侵されて、青い炎を
纏わせながら緩やかに燃え尽きる。硝子細工の様に透き通った音が持つ絶対零度の灼熱が、
訊く者の心さえも爛れさせ、冷たさ故に焼き尽くし。球状に捻じ曲がった螺旋の端に感情
の底にある暗い何かが迷い込み、抜け出せぬまま、朽ち果てる。最下層で氷を噛みながら
嗚咽を上げる、堕ちた傲慢の王が囁く甘い声。
誘われた気がした。
志摩子は唯其の前に、射竦められ、思考を躯ごと眠らせるより他には無く。死に際に筋肉
が萎縮し痙攣する様に足を彼女の元へと運ぶより他に無い。選択肢は、移ろわざる意識を
地面へと結びつける鎖の置き場にしか過ぎない。最初から繋ぎ止める場所の無い時には、
只波に呑まれるだけ、濁流に浮かべた落葉と同じ、底の見えない水の底へと沈むだけ。
一歩、二歩と鮮やかな薄紅の粉雪に埋まる柔らかい土を踏みしめる度に、どくりと心臓が溢
す粘ついた赤黒い血が滞り、喘息の発作が根を拡げる。息が詰るのではない、呼吸そのも
のが、存在出来ない。空気の密度が薄れていき、粘度が火にかけた水飴の様に増していく。
意識して息を吸う、其の度に吐息の術すらも思い出せなくなっていく。一歩、二歩と生温
い春の風に身体を泳がせる度に、肺が悲鳴を上げている。肺胞の一つ一つを細い糸で締め
潰されていく錯覚。焼き爛れた鉄の刃で感情をこそぎ落される虚妄。
そして、薄れていく空気の代わりに辺りに満ちる、腐敗の香り。
花の鮮やかな色彩を帯びた香りに入り混じり、咽喉の奥に其の暴力的な輪郭を残す、此
の世から美しいと云われる全てを抜き去った後に残る、基準さえも持たない穢れを色にし
た様な匂いが、鼻に粘つき、肺まで通らず、只ぐらぐらと脳髄の奥へと殴りつける。自然
に溢れる涙は、躯が拒絶するから。此の匂いを、此の景色を、目の前で微笑む彼女の事を。
行ってはいけない。このまま、彼女の元へに辿り着いてはいけない。死の臭いを纏わせ
た、あの少女の元へは。
ざわりと風がまた吹く。深い緑色のスカートがはためきながら円を描き、彼女の周りを踊る
姿は、手にした物全てが業火を上げて燃え尽きる餓鬼達を従えた…
そっと、少女の腕が伸び、其の先でロザリオが揺らめいて。銀の振り子が描く弧が、
志摩子の意識を少しずつ奪い去る。天使が少しずつ眠る酒を掠め取る様に。
「本当に、醜いものね。舞い散る桜は」
零れた言葉が耳に。仄かに見えた薄ら白い歯が目に。微笑が、心を更に深く眠らせる。
「本当に、醜い…何故なのかしらね。人は此れを見て美しいと云う。其の色が美しい
のならば、腐りかけた桃の実が滴らせる果汁に色付く布でさえも美しい筈なのに。春に咲
くのが美しいのならば、道端で踏まれて拉げた名も無い花でさえも美しい筈なのに。儚い
から美しいのならば、手の平で潰れて死ぬ蚊でさえも美しい筈なのに。其れでも、人は桜
は美しいと云う。他の物は、見向きもせずに。如何してなのかしらね」
一歩、二歩と彼女との距離が縮む。風に紛れて聴こえてきたのは、唸り。車輪が立てる
高く低い唸りが、錐で鼓膜を突く様な痛みを持って聴こえてきた。舞い散る薄紅に紛れて
見える青黒い光沢。幾粒も幾粒も彼女の周りを飛び交い、貼りつき、また飛び交う。一層
増す腐臭と共に、其の数は増えていき、唸りが叫びへと変わりゆく。
其れが、蝿だと気づくのに、そう時間は掛からなかった。
「桜の下に死体が眠り、だからこんなにも美しく咲くと云うならば、此の世に此れ以上、
醜い花も無いとは思わないかしら。血を吸って、白い花弁を薄紅に変えると云うのならば、
此の世に其れ以上、忌々しい花も無いとは思わないかしら。其れなのに、人は其れさえも
美しいと云う。おかしいわね、死が近い程、人に愛されると云うのも」
ぽつりと其の時、彼女は涙を溢した。ガーゼで覆われた、見えない瞳から一滴、黄白色
の雫を地面へと。かさりと小さく音を立て、未だ朽ち果てずにいる落葉の上で、産み落と
された雫は蠢いて、震え、這いずり回る。そして、また一つ、一つと地面に落ち、這い回
り、寄り集まって、また離れていく。錆びた色の布の奥、爛れた目蓋に覆われた眼孔の底
に孕んだ暗がりから湧いては落ちる蛆の雫。流れ出る腐敗の吐息。狂いながら飛び交う青
黒い殻を持った蝿。彼等を覆う、桜の花弁は、確かに醜く、忌まわしい。薄汚れたビニー
ルの様な死を帯びるが故に。
「神も、結局は同じ事だったのかしら。あれ程に、尊く美しく思えていた筈なのに、今
はもう疱瘡を掻き毟る子供と同じにしか思えない。グリューネワルトの受刑図みたいに、
肋骨で歪んだ青白い肌に浮いた黴しか見えない。死が余りにも近過ぎる為に、信仰とは程
遠いおぞましさしか覚えない。其れなのに、私はこんな物を未だ持っている。捨てられな
いまま、また此処にいる。此の桜の下に居る。本当に…おかしなものね」
軽く関節を曲げると、掌にざらりと金属同士が噛み合う音を立て、小さな十字は身体を
横たえる。そっと握り締める其の時に、白い指先の檻に一片の花弁が入り込む。かちゃり
と音が鳴る。清廉で純粋な、鈴の音にも近しい音。
「忘れてしまったかしら?」
緩やかに微笑む。更に一粒の蛆の涙を流しながら。
熱に当てられたプラスチックの様に意識が縮み、浮世と常世の境目を明確に区切る。喉
に詰まる渇きを、其の時初めて認識出来た。砂の欠片が落ちる時の刻み、其の数秒さえも
久遠でしかなく、頭が刻む間隔が間遠く成り果てていた。彼女は、尚も優しく、優しさ故
に汚らしく、微笑みながら唇だけで「ことば」と紡いだ。
「余りにも…桜が醜くて」
「いえ、その…」
くすくすと甘たるい、其れだけは年相応の、少なくとも身に纏った自分と同じ制服に見
合う少女特有の薄く粘ついた笑い声が左の端が引き攣った唇から零れる。
「お話し出来なかったら、どうしようと思ってしまったわ」
手の中に握られた金属片をスカートのポケットへと腕ごと仕舞い込み、また空を仰ぐ。
つられて見上げると、花で満ちた枝の隙間に抜けるような青い空が広がっていた。鳥の影
が静かに過ぎていく。雲の流れは今は無く。
「貴方と、お話がしたかったの」
「私と…ですか?」
そうよ。滑る様に視線を戻すと、少女は先程と変わらず空を見上げ、引き攣った微笑を
浮かべていた。風は無い。桜も散らない。其れでも噎せ返る、糜爛の香だけは其処に滞り
続け、極彩色の花弁を広げていた。
「でも…」
自分は少なくとも彼女の事は、見覚えが無い。聞き覚えさえも。一度見たら、決して忘
れられない程に、心に刻まれる彼女の事は何一つ知らない。何処かで、出会っていたのだ
ろうか。そうだとしても。
「私も初対面よ。安心して」
何を安心すれば良いのかは知らない。むしろ、其れ故に青と赤の入り混じり、黒に侵さ
れた色の揺らぎが胸を詰らせた。例えるならば、始終響き続ける此の唸りにも似た。
「只、良く似ていたから。それだけ」
「似て…ですか?」
舌に絡まった水気の薄い唾液でもつれ、上手く言葉にならなかった。少女はゆっくりと
首を縦に降ろし、耳元に掛かった髪を指先でかき上げた。さわりと癖の無い長い髪が僅か
は波紋を描き、また眠る。其の上に、一匹の蝿が止まり、足を擦る。良く見れば黒い絹に
は数匹の小さな羽虫が髪飾りの様に纏わりついていた。其の内の一匹が、翅を鳴らし、志
摩子の元へと飛びつく。少しだけ眉間を顰め、片手で打ち払う。
「ごめんなさいね、此の子達が煩くて。不愉快でしょう?」
面と向かってそう云われて、はいそうですとは言い難い。其れでも知らぬ内に肩から滲
んだ心の裡は無意識に相手に流れているようで。彼女はそんな姿を見て、僅かに笑った。
寂しそうでも、悲しそうでも、数多ある在り来たりの表現とは異なる、本当の微笑を。
「少しだけ、ほんの少しだけ我慢してあげて。彼等だって、生きているのだから」
爛れた左を指先でなぞる。ガーゼの裏から溢れ出た蛆が数匹、其の先に落ちた。手の甲
へと向けてにじり歩く姿を、穏かに見つめながら、しゃがみ、そっと地面へと離す。先程
から落ちては這い回り、集う其の群れへと。しゃがんだきり、立ち上がらず、群れ集う黄
白色の塊を見つめる。自らの体から零れ落ちたからなのか、だが其の視線は決して愛おし
い感情が含まれた物ではなく。
「彼等はね、代償なの」
「代、償?」
「そう、神を」
すらりと立ち上がり、真っ直ぐに志摩子を見つめ、彼女は言った。
「殺した、其の咎の」
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