春 夏 秋 冬
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桜の花弁が風に舞い、其の一片がぺとりと彼女の頬にへばりつく。流れ落ちる茶色い雫
を吸って、腐りかけた桃の様な色へと変わっていく。鼻を冒す腐臭が一層濃くなった様な
錯覚。ガーゼに染み付いて、剥がれ落ちた目蓋の破片が指先で揺れている。千切れて、ぐ
ずぐずになった眼孔の中に、白く濁った何かが蹲っている。煮過ぎた魚の目の様な、変色
した卵の黄身の様な、何か。其の周りに、乳白色の蛆が解けない毛玉の様に犇めき、虚ろ
からは青黒い蝿が巣に群がった蜂の様に動き回る。蝿の王。腐り果てた孤島の丘に転がった
牛の首。唸りが一層耳についた。壊れたラジオの音色。醜悪で、奇怪で、不愉快な旋律。世
界其の物が軋む音。位相がずれて、二重写しなる時に、叫ぶ悲鳴。
「神を殺すと云うのは」
差し込む春の陽射に顔を顰めながら、ぽつりと呟いた。
「生きている、と云う事さえも見えないから、だから神を求めたと云うのに、居る筈の物
信じていた存在を、見えもしない、聴こえもしない、触れもしない、其の味さえも分からない
存在を求めたと云うのに、今度は其の存在を疑ってしまう事。自らが寄る辺としていた方舟の
外に、本当は雨など降っていないのだと気づく事。最後の審判など来ないのだと、裁く者も裁
かれる者もいないのだと思ってしまう事。そして」
少女は志摩子の方へと一歩足を近づける。また一歩と。身体を傾げ、重心がばらばらに
動き回るかの様な不安定な歩き。見えない壁を伝いながら歩く。其の度に、ぽっかりと空
いた穴からは蛆が振り落とされ、濃緑色の制服の上を這い回る。また一歩。距離が縮まる
度に唸りが心を締め上げて、吐気が喉を塞ぐ。生理的嫌悪、そして潜在する恐怖とが志摩
子の脚を竦ませる。其れ以上に、褐色と黄白色の涙を溢す彼女の姿が、海に浮かんだ蜃気
楼の様で、動く事が出来なかった。
気の付けば、少女は志摩子の直ぐそばにいた。そっと、硬直したきり、だらりと下に垂
れていた手を握る。かちゃりと金属が鳴る音がした。其れは、あの風で揺れていたロザリ
オ。安い銀色の鎖を志摩子の右腕に巻きつけていた。其の指先は、長い間握っていた筈の
鎖は、温もりなど欠片も無く、死にゆく者の冷たさに凍えていた。
「誰も愛せなかった事。つまりは、そう言う事よ」
「愛せ、なかった…」
「そう…私は何一つ愛す事など出来なかった。神も、人も、自分さえも。全てを愛そう
として、結局全てが私の指先からすり抜けてしまったの。覚えておいて、神を愛する者は、
其れ以外の全てを捨てなければならないの」
鎖を巻き終え、引き攣る様に唇を歪ませて、微笑む。ごとりと蹲っていた何かが蛆の糸
を巻き取りながら、転がった。縮んで、もう元の形を思い起こす事も出来ないけれども、
真ん中に浮いた琥珀に滲んだ鳶色が、辛うじてかつて眼球であった物なのだと。
「…そんな、事は」
ない。そう云いたかった。だが、志摩子には如何しても否定しきる事など出来ない。自
分が、此処に居る事の違和感だけが心の片隅で煙草の脂の様にべっとりと降り積もってい
るから。何もかもを捨てる覚悟で、自分は今此処に居るのだと。其れが、自分にとっての
信仰であるのだと、思い込んでいたのだから。戸惑いに揺れる彼女に気づいているのかい
ないのか、少女は其の歪んだ微笑を崩す事無く、手の中にロザリオを握らせた。
「ないと、私もそう思う。誰もが皆、そんな風に生きて居るのではないと。でもね、貴
女は、貴女には分かってもらえると思う。誰よりも、あの人に、そして私に似ている貴女
なら。だから、貴女は、こんな風になっては駄目。貴女の中の神を、殺しては駄目よ。そ
うでなければ、貴女は全てを失う」
私のように。そう呟いて、そっと首を傾げた。ずるりと音を立てながら、其の重みに耐
えかねて、支えていたガーゼも目蓋の肉も失い、寄る辺の無くなった瞳が眼孔から滑り落
ちる。べちゃりと耳障りな水音を立て、地面へとめり込んだ。半分以上がどろどろの粘液
になって、中の硝子が剥き出しになった姿は、何時かに森で摘んだ紫色の木の実の様で。
あの時は、中に埋っていた青白い珠が美しく見えたのに、同じ色、同じ光沢、同じ容の其
れは如何してこんなにも、醜く映るのだろうか。堰が外れ、ぼろりぼろりと無数の蛆が這
い出て、爛れた皮膚の上に溢れ出てきた。ぼとりぼとりと顎を伝い、首筋へと落ち、全身
に巡る様に、覆う様に、這い回る。其処で、少女はそっと志摩子から離れた。
「神を殺した男は、終には光を失って死んでしまったわ。私も、きっと此の毒が全身に
回って、腐ってしまう。実はね、貴女の顔もろくに見えないの。あの日からずっと、
私の光は死んだままなのよ…」
徐々に声が掠れていく。唇の隙間に蛆が入り込み、喉の上に縮こまって、言葉が上手く
紡げない。
「お願いがあるの…貴女に」
聞いて頂けるかしら。云わずとも、既に焦点も定まらなくなった瞳がそう問いかける。
志摩子は、こくりと頷いた。頷くよりも他に、何も出来なかった。逃げ去る事も、嫌悪に
叫ぶ事も、何も。
「愚かな、最後まで何一つ愛せなかった、私の死に様を見ていて。そう、長くはかから
ないと思うから。そして、覚えておいて。神を殺した人間の、最期を」
よろめきながら、絶え絶えにそう云って、少女は桜の樹の根元に崩れ落ちた。
少女は桜の下で、目を閉じる。
いつかに呟いた、本の一節を口にしながら。
―J'ai developpe le neant.
全ての季節は終わりを告げて、彼女は静かに眠りについた。
―はや…黄昏は來たった。太陽は沈む。わが幸福も、彼方へ…!
(『Also sprach Zarathustra』 Friedrich Nietzsche)
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