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 空からは粉雪が螺旋を描きながら、静かに私の上に降り注いでいた。
 凍った躯、凍った心、凍った時が支配する凍った世界の真ん中で凍り続ける。
 もう目の前が霞み始めている。粗さを増しながらモザイクに沈んでいく。
 灰色にくすんだ空、芋虫が犇めき合う様な雲、雪に混じる白い息。
 死ぬ間際に見える走馬灯は、何故か私には見えない。何も思い出す事なんか無い。神に
すら、見捨てられたのか。天使に見放された私を、神は終に見捨てたもうたか。エリ・エ
リ・ラマ・サバクタニ。小さく呟いても、喉に絡みついて出てこない。くぐもった声は只
綿の様に口から零れて消えた。救世主さえも見捨てた神は、私の事など見てもいないか。
 震える両腕を真っ直ぐに空へと掲げる。少しでも力を抜けば、直ぐにでも崩れ落ちそう
な砂の腕。其の上にさえも、雪は無情に降り注ぎ、僅かに残された体温をも奪い取る。
 雪が美しいなどと最初に言ったのは誰なのか。
 私は信じない。こんなにも醜く、浅ましく、冷酷で、無責任に嘲笑いながら踊り舞う
氷の華が美しいなどと、絶対に信じない。此れは、人を殺すもの。人を引き裂くもの。
人を白い闇へと引きずり込む、昏き白い花弁。
 鳥は片翼を失った。もう飛べない。地面を這いずり回り、野を駆ける獣の贄になるだけ。
 零れた涙の意味さえも、知らぬまま。


 壁に掛けられたギリシャ文字が刻まれた時計の短針が、かきりと位置を横へとずらす。
夜中の二時。今頃、彼女は何処に居るのだろうか。栞は、何処で何を思うのだろうか。
 私は栞を失った。其の事に変わりは無い。どんな言葉を尽くしたとしても、表す結果は
同じ。陶器のコップに満ちた赤黒い水の味も今はしない。虚構の葡萄の味をつけられた炭
酸。水面に細かい泡沫が浮いては弾けて、静かに沈む。喉にひりつく感覚は、何時の間に
か私の心に巣食った茨の味。冷え切った草の棘。
 窓の外には月。暗い雲に汚されて光る白い月が浮かんでいた。埃の様な雪に彩られた窓
は、何時かに見た氷の彫刻の様に月明かりを鈍く歪ませる。
 涙も出ない。とうに枯れ果てた。
 コップを菓子袋が散乱した机の上に置くと、かたりと寂しげな音が蛍光灯で薄黄色く照
らされた部屋に響いた。雪の降る音さえも聴こえてきそうで。何時の間に降り始めたのか、
もう分からない。お姉さまの家に着いた時にはもう、降り積もっていた様な気がする。
 肝心の部屋の主は、今はお風呂に浸かっている頃。もう一人、蓉子は先程から私の横で
毛布に包まって眠りの淵に居る。
 暖房が程よく効いた部屋。其れでも、私には未だ寒い。世界が燃え尽きる程の業火が無
ければ、駅で冷え切った私の身体は温まらないのかも知れない。二度と、温もりを手にす
る事は無いのかも知れない。
 「聖、貴方もお風呂に入ったら?」
 不意に扉が開き、肩からかけたバスタオルで髪に纏わりついた雫を拭いながら、お姉さ
まは笑っていた。
 「いえ…私は」
 今はそんな気分にはなれない。
 再び、コップを手にすると、中に満たされた紫色の水を飲み干した。喉が厭にひりつく。
温くて、余り美味しい物ではない。炭酸の抜け始めている。べたつく甘さだけが舌に貼り
つき、気持ち悪い余韻が口の中に満たされた。
 「そう」
 小さくそう言うと、彼女は私の横に座った。火照る身体から零れる湯の残り香が私の鼻
をくすぐる。隣り合った方の腕が、少し熱い。部屋を満たす丸く圧し掛かる様な温度とは
違う、熱さ。お姉さま自身の心から漏れる温度の様な気がした。でも、例え今は私を暖め
てくれようとも、何時かは冷めてしまうもの。指先から落ちる砂の様に、流れていってし
まうもの。
 一度手に入れたものを失った事で、とても大切なものが自分から離れていってしまった
事で、私は信じる事を忘れてしまっていた。其処にあるものは、何時か何処かへ行ってし
まうのだと。其れならば、最初から手に入れない方が良かった。最初から出会わなければ、
私はあのまま腐り果ててしまえば良かったのに。其の方が、もしかしたら幸福なまま死ん
でいけたかもしれなかったのに。
 ふと、もう一つの肩に温もりが降り注ぐ。お姉さまは、肩を回して私を抱き止めていた。
 「彼女の事…考えていたのね」
 穏かで、優しい声。子供をあやす様に二度三度と肩が叩かれる。
 床に捨てたままにして置いたコートのポケットには栞からの言葉が眠っている。見返す
事の無いままに、死んでいく紙切れ。
 何も答えないままに俯く私を、そっと抱き寄せた。肩の上に乗せられた耳に火照りが伝
わった。垂れた髪が頬を刺す。むず痒い。余り心地の良い類の刺戟ではない。
 「僕がぼんやりと考えた事は、野鳥の世界で一羽のカナリヤがどうやって暮らしていけ
  るかという事と、カナリヤがどうやって其処に現れたかという問題だった」
 お姉さまの視線の先は薄汚れたベージュ色の壁。其の先にある、記憶の鍵箱。
 「…何の話ですか?」
 「チェスタトンの『詩人と狂人たち』よ」
 余り耳にした事の無い作家だった。だとしても、読む気にもならない。むしろ、もう本
は読みたくない。自分が抱え込んでいた事を何一つ明らかに出来ない言葉は、もう要らな
い。欲しくない。偏見と誤謬に満ちた言葉は、只悪戯に心を引っ掻き回して、ずたずたに
して、そのまま何も救いもしない。只一つの感情も表現できないものなんか、どうして必
要だと言うのか。
 「貴方はカナリヤね」
 そう言って、彼女は机の上に置き去りのままにしてあったコップを取った。
 「あら、もう無い…聖のを一口頂戴」
 指に引っ掛けて遊ばせておいた私のコップをすっと掴むと、中を覗き込む。先程、飲み
干してしまったから、其処にはもう何も無い。只の一滴も、残ってはいない。
 「うーん…ボトルにももうないし…困ったわね」
 「其れより、お姉さま。私がカナリヤってどういう意味ですか?」
 うん、と呻く様に呟き、私のコップを机の上に置き直した。
 「お風呂に入れば分かるわ」
 柔らかく笑って、彼女は袋の端に残っていたポテトチップスの欠片を口に放り込んだ。
 

 湯船に張ったお湯はもう冷めかけている。
 温い水でふやけた手で濡れた前髪をかき上げる。ばたりばたりと降りかかる雫が目に沁
みて、上手く目を開ける事が出来ない。刺す痛みで彩られた視界の黒。其の中には、さっ
き窓から見えた歪んだ月が見えた。そして、彼女の言葉が幾重にも重なり合って波紋だけ
を刻み付ける。音も無く、姿も無く、只其処にあったという証拠だけを残して、拡散し、
崩れながら、薄く広がって消えていく。
 一羽のカナリヤがもがきながら、水の上を飛んでいく虚妄。
 あれが、私。風切りされて、羽ばたく事もままならないあの黄色い鳥が、私なのか。
 何時だかに読んだ本に書かれていた一説。一体、何の話だったろうか。そう確か、『天に
在っては比翼の鳥に、地に在っては連理の枝に』だった。どの文脈で出て来たのか、もう
覚えては居ない。其れでも、其の時は何か浅い感動を覚えた様な、気がしていた。
 二人重ならなければ、飛ぶ事もままならない、伝説上の鳥。
 片翼しか持たないから、二人一緒で無ければ飛ぶ事もままらなない、惨めで、憐れで、
悲しい、鳥。そう、私は其の鳥を嘲笑った。まるで、自分ではないかと。
 私は栞が居なければ、飛べないまま、地を這わなければならない。脆弱な足で腐った草
葉で埋った浅黒い地面の上を。栞も、そうだと思っていた。
 でも、栞は飛べた。私が居なくても、羽ばたく事が出来た。彼女には、もう一つ羽根が
あった。私の為に、飛べない私の為に折り畳まれたままにされた翼を、彼女は今広げただ
け。要らなかった。私は、彼女にとって必要ではなかったのだ。
 ぴたりぴたりと天井に浮いた雫が、私の額に降りかかる。
 冷たい。
 薄目を開けると、お風呂場の風景は薄靄が張った様にぼんやりと霞んでいる。
 また一つ落ちる雫。頬に当たって、顎を伝い、首筋へと落ちていった。
 否、違う。此れは涙。私の瞳が溢した雫。枯れ果てた筈の奔流。あの時、駅のホームで
凍ったままになっていた心が溶け出していた。だらしなく流れ続ける涙は、尚も首筋を伝
い私を沈めた浴槽に落ち続けて、小さな波紋を残しながら溶け落ちる。
 「ああ…ああああああああああああああああああ!」
 泣いている。そう思った時に、喉の奥で何かが崩れ落ちた。泣いた。私は哭いていた。
落ちた鳥の啼き声が、湿った狭い空間に響き渡る。共鳴しながら奏でられた不協和音。此
れが、私の鳴声。取り残されたカナリヤの震える歌声。
「ああああああああああああああああああ!」
 零れ続ける涙が眼を刺戟する。
 沁みる。沁みてしまう。
 痛い。
 痛いよ、栞。
 栞!
 助けて、栞!
 私を此の呪縛から解き放って。あの時と同じ様に。出逢った時と同じ様に。もう一度だ
け私に空を、空を頂戴。風を感じさせて。あの空へ、マリアの心へと私を連れて行って。
 お願い…栞…助けて…
 頭を抱え込み、湯船の中へと顔を沈める。ごぼごぼと吐き出された声が泡となって溢れ
出す。顔中に纏わりつく。其れでも、私の声は、涙は止まらない。体中の水を吐き出して
しまう。綿に成る程に啼き尽くして、喉も潰れるまで泣き続けて、二度と歌わないように。
 私は、カナリヤ。
 栞の居ない、此の雪に埋もれた世界に閉じ込められた、飛べないカナリヤ。
 お姉さま、そういう意味だったのですか。貴方は、私を憐れんでいるんですか。野鳥の
世界に紛れ込んでしまった私を、哀れみ、憐れんで、嘲笑うのですか。貴方も、私を置き
去りにして、飛び立つのですか。皆、皆私を取り残したまま、羽ばたいてしまうのですか。
籠の中に、私を籠の中に入れて。
茨の鎖で閉じ込めて。
もう二度と求めないように、もう二度と嘆かないように、もう二度と歌わないように。
籠の中に閉じ込めたまま、縊り殺して!
お願いだから…
息が苦しい。もう空気が尽きた。このまま死んでしまえ。水の棺で葬られてしまえ。こ
んな世界なんか、私は要らない。私は欲しくなかった。どうして、籠から出してしまった
の。栞、どうして私は貴方をあの時御堂で見つけてしまったの。
 『私は、私と出会ったことで、あなたをこれ以上傷つけたくはないのです』
 嘘だ!
 皆、嘘だ!
 欺瞞だ、誤謬だ、虚構だ、妄言だ!
 ざばりと冷めた湯から顔を上げる。前髪がべっとりと纏わりつく。鬱陶しい。乱暴に掻
き毟り、ぐちゃぐちゃに後ろへと流しつける。泣いているのかも、只濡れただけなのかも
分からない。其れでも、喉を突く声。
 浴槽の壁へと背中を押し付けて、天を仰ぐ。黴の浮いたページュ色。茹ですぎた卵の白
身と同じ色。くすんだ乳白色のタイル。
 「ぐはぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 両手を顔に押し当てる。圧迫感。自分の手の筈なのに、別の生き物の様で。
 「栞! しおりいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
 まだ枯れない。声が嗄れてくれない。


 未だ濡れている身体を拭いながら、鏡越しに見えたのは、真赤に眼を腫らした醜い自分
の顔。滴り落ちる雫の中で、小さく震えている様に見えたのは、多分顔中を濡らしつける、
此のお湯の所為。
 お姉さまが貸してくれた寝巻きに着替える気分にはならなかった。其れでも、一度脱ぎ
捨てた下着をまた着ける気にもならない。少しだけ悩んで、私は素肌に自分が着ていた服
を羽織る事にした。がさがさと布の生地が躯中を荒く撫で付ける。
 髪を拭うと、私はタオルをバスケットの中へと放り込んだ。
 僅かに軋む戸を開けて、廊下に出ると暗がりがとぐろを巻いて眠り続けていた。素足に
凍み切った木目が氷の棘を刺す。痺れる様な痛み。其れでも、私は静かに床を踏みしめる。
吐く息が白い。闇へと呑み込まれる白い綿。形を歪めながら、ぼやけていく輪郭を眺めて
いた。身体から水蒸気がゆらめき、立ち昇る。其の内尽きる。ひたひたと足を進め続けた。
 家中が死んでいた。もう、真夜中と言って差し支えの無い時刻。
 閉められたままの扉にそっと手を当てた。此の先には何があるのか。居間、台所、他の
部屋へと通じる何か、私の居る場所など無い何処か。当たり前の事。此処は、他人の家な
のだから。自分が居る場所などある筈が無い。只、其の事実は何よりも私の心に幾千もの
針が埋め込まれた飴玉の様に喉を通った。
異邦人の居る場所は、やはり異邦人の棲む国にしかない。
じゃあ、国を追われた異邦人は何処に行けば良い?
 何処まで行けば良い?
 何処まで歩いていけば。
 其処で、私は思考を閉ざした。意味の無い問だ。価値の無い答えしか返ってこない。
 下らない、堂々巡りでしかない。
 夜に眠る壁に手を浅く這わせながら、私は歩いた。お姉さまの部屋へと。


 「聖」
 部屋の扉を開けると、蓉子が何かの満ちたコップを両手で持ちながら座っていた。
 後ろにあるベッドにはお姉さまが毛布に包まって寝息を立てている。丁度、私が出る前
と入れ違っていた。そんなに、私は湯船に浸かっていたのだろうか。
 「あまり遅いから少し心配したわ」
 部屋の時計に目をやると短針が先程よりも一つ分右にずれていた。
 「髪を洗うのに時間が掛かったのよ」
 嘘だった。念入りに頭を洗った事など今まで一度も無い。半端に乾いて堅く貼りついた
髪を右手で掻き乱しながら、私は蓉子と机を境に対するように座った。
 脇には見慣れない清涼飲料水のボトル。きっとお姉さまが新たに持ってきたのだろう。
半分ほど中身が無くなっている。表面に水滴が珠となって浮いている。出したばかりなの
だろうか。私はボトルを掴み、手近に在ったコップに中身を注ぐ。ごぽりと間の抜けた音
を立てながら吐き出された透明な炭酸が茶色い染みのついたコップへと満たされていく。
湧き上がる泡が音を立て、飛沫を上げながら潰れていく。
 口に含むと未だ冷たさを残す甘い水が舌と喉へと突き刺さる。外の空気で冷め切った私
には、毬のついた氷を呑み込んでいる様だった。
 「ねぇ、聖…」
 コップを握り締めながら、蓉子は此方を上目遣いに窺っている。
 「何?」
 彼女は喉に詰まった何かを懸命に吐き出そうとしている。言葉が分からない、そんな顔
だった。何が言いたいかは、良く分かった。そして、其の後私がどう言うかも、分かって
いる。そんな顔。蓉子の胸の内を嘲笑いながら、私は尚も棘の生えた水を飲み下す。びり
びりと痺れる。普段は飲み慣れた物も、今だけは忌々しい。
 「その…」
 「…言いたい事があるなら、はっきりしたら?」
 無造作に置いたつもりが、妙に大きく音を立ててコップの底が机にぶつかった。びくり
と蓉子の肩が跳ねる。苛立っている様にでも見えたのだろうか。
 「…聖」
 下唇を噛みながら、彼女は一言一言を区切る様に言った。
 「貴方、此れからどうするの?」
 「どうするって?」
 「だから…」
 言葉が紡げない。心の中で容にならないまま爪を研ぐ虫達を上手く吐き出す事が出来な
い。何を言うべきか。何をするべきか。何が、私にとって一番良い事なのか。どんな言葉
が今の私にとって一番相応しいのか。分からないままに、胸の奥で雪が積もる。
 「別に…どうもしない」
 どうにも、ならない。比翼の鳥は連れそう片羽根を失ったのだから。どうにも、ならな
いじゃないか。
 黙ったまま、再びコップの中身を啜る私を、蓉子は下唇を噛みながら見つめている。
 『あなたが傷つくところを見たくないから』
 そう言った時と同じ瞳。気高く、其れでいて慈愛に満ちた、強い瞳が少し濡れている。
あの瞳、あの眼があれば、私は少し楽に生きられるだろうか。此の野鳥だらけの、屑の様
な世界で、私は羽ばたく真似が出来るだろうか。
 「貴方は…そうやって、自分に閉じこもったままで良いの?」
 「何だって?」
 「そうじゃない…栞さんを失って、傷ついているのは分かるわ。でも…」
 「分かるって…何が分かるのよ!?」
 一度手にしたコップを机の上に置いた。今度は、叩きつける様に。壊れてしまえ。何も
かも、此のコップと一緒に、机と一緒に、皆がたがたと音を立てて崩れ落ちてしまえば良
い。こんな、こんな反吐が出る様な世界なんか、私は欲しくない。
 其れでも、蓉子の眼は怯えない。世界も壊れない。只、時計の針が歩む音だけがかちか
ちと部屋に響くだけ。
 「…大きな声を出さないで。起きてしまうわ」
 溜息の様な掠れた声。擦り切れた、諌める声。お姉さまは私の目の前、彼女の後ろで尚
も静かに寝息を立てている。
 「はん、お優しいのね、蓉子さんは」
 ぐったりと力を抜き、崩れる様に身体を揺らす。私は、多分今笑っている。とてつもな
く厭らしい笑いで唇を歪めている。煩わしい。何もかもが煩わしい。
 「其の優しさで、私も気遣って下さるのかしら?」
 「そうよ」
 はっきりと、告げた蓉子の声が耳を伝って心を握りつける。怯えているのは、私。此の
私。佐藤聖と名付けられた何か。気怠く首を彼女へと向ける。否、気怠く見える様に。作
り物の怠慢を演じながら、私は蓉子を見た。彼女の瞳を。
 「どうして、其処までして下さるのかしら。私が薔薇の館の住人で、貴方のお仲間だか
  らかしら」
 幾ら気遣っても私はカナリヤ。人の手に無ければ生きられない、憐れな小鳥。惨めで、
醜くて、歌う事さえも満足に出来ない、哀れな子羊。九十九匹の為に見捨てられた、可哀
想な一匹。反吐が出る。甘ったるい吐気。そんな事を言った奴も居た。誰だったか。
 「違うわ」
 衰えない、彼女の強さは何処にあると言うのか。あの瞳の奥に眠っているのは、何だと
いうのか。
 …見るな。私はそんな目で見るな。
 じりじりと青黒い火が焼く。足を焼く。指先を焼く。髪を焼く。睫毛を焼く。胸を焼く。
理性を焼く。感情を焼く。憤怒を焼く。嫉妬を焼く。怠惰を焼く。焼く。焼き尽くす。骨
すらも残さずに、灰さえも残さない様に、舌で舐め尽す。
 見るな。こっちを見るな!
 其の目をこっちに向けるな!
 「へぇ…なら、どうしてかしら?」
 嘘で固めた顔で、嘘で固めた強がりを、私は吐き捨てた。見られてはいけない。心の渦
巻く黒い雪を見られてはいけない。あの眼に、見られては。
 「…だからよ」
 粘ついた言葉。くぐもって良く聞こえない。何が言いたい。
 「…何ですって?」
 「貴方が好きだからよ!」
 今度は蓉子の番。大きな声を出すのは。
 「ふふ…」
 今何と言った?
 今、私に彼女は何と言った?
 自然と声が込み上げる。陰鬱な笑いがくつくつと。
 「ははは…はははははははははははははははははははははははははははははははは!」
 よりにもよって、何だって?
 「な、何が可笑しいのよ!?」
 此れが可笑しくなくて、何が可笑しいと云うのだ。
 好きだからだと?
 笑わせるな。私は信じない。そんな言葉なんか絶対に信じたりしない。腹の皮が突っ張
る。きちきちと痛みまで湧いてくる。其れでも、私は笑った。嘲笑った。何もかもを私は
哂い飛ばした。お前達が、此の私を、受け入れるとでも云うのか。だから、何だ。何なん
だ。地面に残された鳥を見て、誰が好きだなんて、どういう冗談だ。
 「いやいや…そう、そうなの…くすくすくす」
 笑いが止まらない。ほら、涙まで流れてきた。涙。涙?
 違う何かが込み上げてくる。笑いとは決定的に、根本的に違う何か。
 例えるならば、衝動。否、慟哭。忘れた筈のカナリヤの歌声。
 「あはは…あは…あははは…あは…あああああああ」
 拙い。駄目、此処で歌っては駄目。彼女の前で、彼女が住む此の世界で啼いてはいけな
い。喉を絞める様に両手をかけて、湧き上がる物を堪える。吐気。嘔吐。何でも良い。名
前なんかどうだって良い。来るな。こっちへ来るな!
 「ちょ、ちょっとどうしたの?」
 蓉子が私の異変を感じて、此方へ来ようとする。
 来るな。来ないで。お願いだから、こっちへ来ないで。
 頭を過ぎるのは、白い肌、長い髪、神聖なる天使の微笑み。
 栞。栞の面影。栞の温もり。栞の歌声。栞の感触。栞の、唇。
 やめて。来ないで。来ないでよ。あああ…ああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
 「聖、聖ったら」
 首筋を押さえて蹲る私の横には彼女が居た。
 栞とは違う短い髪。端正で、美しき紅い薔薇の蕾。
 込み上がる衝動を、私は彼女へとぶつけた。肩を掴み、押し倒した。短い髪が揺れる。
私の髪と混じりながら、視界を汚していく。
 ぱさりと、長い髪が顔を囲み、横になった彼女の顔を影で覆う。手は蓉子の顔の横、身
体は蓉子の上に。身体を押し返す、肉の重み、温もり、存在の強さ。
 暗がりで、彼女の顔がどうなっているかは良く分からない。分かりたくもない。嫌悪で
歪んで入るならば、何も言う事は無い。
 ほら、私はこんな人間よ。貴方に好かれる理由なんか、何も無い。
 黒ずんだ彼女の白い頬の上に、何かがぽつりぽつりと更なる影を造る。
 雫。水の珠。涙。眼から零れ落ちた、私の涙が。
 「聖…」
 そっと、蓉子の手が私の頬を撫でる。優しく、硝子細工を扱う様に静かに、触れる。
 「蓉子さんは…」
 其の手を振り払う様に、顔を横に振った。傷口に触れた指先の挙動。僅かに離れ、其れ
でも温もりだけが伝わる距離へ。
 「私の事が好きなのよね?なら、私のしたい様にしても良いのかしら?」
 唇から零れたのは、沈黙。何を言っても、所詮は其の程度。誰も私に近寄るな。触れて
くれるな。何人も、此方へなんか歩いて来やしないのなら、いっそ独り朽ち果てるまで、
其処で哂うが良いさ。
 「…良いわよ」
 其れでも、彼女が紡いだのは肯定の言葉。触れられた頬にまた指先が宿る。もう片方に
も、彼女の手が伸びた。
 「へぇ…優しい蓉子さんは、栞を失った可哀想な此の私を慰めてくれるのかしら?」
 「…貴方が、望むならね」
 望むなら、だと。馬鹿にしている。何も出来やしないとでも、思っているのか。
 望むなら、だと!
 「そう…」
 私は、唇の端に笑みを寄せる。そして、ゆっくりと彼女の顔へと自分の其れを近づけた。
 最初は、小さく。次は食らいつく様に彼女の唇を貪った。
 「ふぅんっ…!」
 突然、呼吸を奪われて、蓉子の息が頬の中に籠もる。其れでも、私は止めない。無理矢
理に、唇を開かせて、舌を入り込ませる。歯の裏を、舌先を、口の中の全てを舌で嘗め回
し、蹂躙する。
 「ん…」
 荒い息が舌に纏わりつく。生温い、温度。不愉快だ。唾液が絡まりあう水音が秒針が刻
む音を消し去る。部屋には只、お姉さまの小さな寝息と、舌と舌が結ばれる音だけが犇め
く。少し、顔を遠ざけると今度は彼女の方から舌を伸ばしてきた。遠ざかる私の舌先に縋
る様に赤黒い舌が手を伸ばす。舌先だけを触れ合わせると、私はまた彼女の口へと身を沈
める。
 幾度も幾度も舐め合い、絡ませて、唾液を送り合う。
 「せ…い…」
 荒く途切れた言葉。何時かに聞いた声。何処で聞いたのだろうか。そう、あれは…
 どくりとまた心の底で疼き始める。薄い粘膜を爪を立てて掻き乱す、奔流。
 やめろ。来るな…
 二人の唾液が入り混じった液を飲み下す。唇からだらしなく残り滓が垂れ落ちるのも気
にせずに。
 そして、私は彼女の唇へと歯を立てた。
 「ふんぅ…!」
 苦痛の嘆き。其れでも、力を緩めずに尚も噛み続ける。ぷちりと肉が引き千切れる音が
口を伝っていく。感じるのは鉄の味。痺れる、味。生温いべとついた水が歯と舌先を汚した。
 顔を遠ざけると、彼女の下唇から赤い血が顎へと伝っていた。
 生臭い、滑る匂い。
 「此れでも、未だ私の事が好き?」
 意地悪く笑いながら、彼女に問いかける。
 影の下、苦痛に歪む蓉子の顔が見えた。既に離されて、宙を掻いたままの指先が今どん
な格好で居るのかは知らない。きっと、苦痛と嫌悪を滲ませた滑稽な踊りを舞っている事
だろう。
 「ええ…好きよ」
 其れでも、彼女の声に翳りは無い。
 髪の闇に潜んでいたのは、あの瞳。甘く濡れた、強い光を持ったままの視線が私を射抜
き、撃ち殺す。未だ、光が涸れていない。
 「そう…なら、こんな事をしても?」
 穢してやりたい。崩してやりたい。滅茶苦茶に壊してやりたい。
 嫌いだ。私は、此の女が、水野蓉子が大嫌いだ。其の目を持つ、貴方が大嫌いで大嫌い
で仕方が無い。貴女の瞳は、私を包まない。突き放し、冷たく見つめる眼だ。彼女の様に、
栞の様に私を包み込んでなんかくれない。受け入れてもくれない。私の失われたままの片
翼にはならない。
 彼女のスカートの中へと手を這わせる。わざと緩慢にいやらしく太股を撫でながら、奥
へと進めていく。空いた手で胸を服越しに強く握りながら。
 蓉子の顔に少しの嫌悪が滲む。そう、私は貴女の其の顔が見たいの。もっと見せて。も
っと聞かせて。貴方の、奥底にある汚い憎悪。
 服の厚い重みと下着の硬い感触越しに伝わる胸の膨らみ。潰れる程に強く、敏感な部分
を甘く刺戟し続けながら、丸みを撫で付けると蓉子の口からは卑猥に濡れた甘い吐息が漏
れ始める。
 「せ…い…」
 「どうしたのかしら、蓉子さん?」
 「もっと…」
 もっと、何だと言うのだ。
 「もっと、優しく、して…」
 そう、優しく。優しくして欲しいと、貴方は望むのね。ならば。
 「ひぃやぁぁ!」
 這わせていた手を一気に下着の中に眠る彼女の淫猥な穴へと突き立てる。指先を化繊の
滑らかな布越しに刺し込み、未だ包まれたままの肉の芽を指の腹で押し撫でる。爪を立て、
引き掻き回す。こりこりとした触感が徐々に硬さを帯びていく。
 「や、やめ…いたっ!」
 幾重もの布に覆われた乳首を探り当て、人差し指と親指で摘み上げる。捻る様に、つね
りながら、何度も左右に振り回す。其の間も彼女のいやらしい秘部への責めはやめない。
濡れている様には感じられない。多分、快感よりも痛みの方が多いのだろう。其の方が私
にとっては好都合だ。蓉子、感じているかしら。私が感じている痛み。私が貴方をぼろぼ
ろにしたい欲求。分かるかしら。分かるわよね。さっき、貴方は私の事が分かると言った
のだから。其の上で、私の事を好いていると言ったのだから。
 「せ…」
 口が餌を求める鯉の様にぱくぱくと蠢いては、つむぐ。引き千切る程に強く抓られた胸
の先端も、既に下着の中へと入れられて直接爪で引っ掻き回されている肉の蕾も、只じり
じりとした苦痛しか与えていない。爪が少し濡れているのは、多分掻き回された股の皮膚
が切れて血を流しているから。じくじくと溢れ出した血流が彼女の陰唇を汚し続ける。私
は、赤黒い粘液を絡めると、彼女の中へと指先を差し込んだ。ぎちぎちと締め付ける膣の
壁。尚も漏れ続ける蓉子の鳴声。もう言葉にもなっていない声の羅列。私の名前になる前
の言葉の断片、聖と紡げない愚かで脆弱な声帯の震え。
 親指で彼女の敏感な蕾を刺戟しながら、人差し指の先で膣壁をがりがりと掻き続ける。
 中から溢れる、血とは違う熱い汁。
 「あれ、蓉子。こんなに乱暴にされて濡れてるの?貴方、マゾ?」
 傷の無い上唇を下の歯で噛みながら、彼女の首が左右に揺れる。薄っすらと滲んだ涙が
眼を、睫毛を、目の切れ目を濡らしている。
 「否定する割に、随分濡れてるみたいだけど?」
 指を引き抜いて、纏わりついたいやらしい粘液を彼女の目の前ですり擦ってみる。親指
を滑ついた生温い体液がべとべとと濡らす。血の赤が濃さを薄めている。
 「汚れちゃったから、綺麗にしてくれない?」
 そう言って、無理矢理に口の中へと指先を突っ込んだ。ぐぅっと息を荒く吐きながらも、
舌特有のざらざらとした感触が撫で回しているの感じた。胸をいたぶっていた手を離して、
今度は其方をスカートの中へと滑り込ませる。茂みのある場所へと手を入れて、下穿きを
ずりずりと引き下ろす。床と太股が邪魔で上手く下ろせない。じれったい。視線を横にず
らすと、其処には道具箱らしきプラスチック製の透き通った黄色い箱の中に入っているカ
ッターナイフが。手を伸ばして、其れを握り締める。
 蓉子の目が怯えの色を帯びる。そう、怖い?
 私は、ちきちきと刃を出すと、彼女の胸元を一気に引き裂いた。白い肌に浮いた赤い線、
そして、露になったレースのついた白いブラジャーの付け根。肌とブラジャーの隙間に刃
を滑り込ませると、ゆっくりと上へと持ち上げる。ぷちぷちと音を立てて、厚い布地が切
れていく。
 「切られるかと思った?」
 今の私は最上に厭らしい顔を浮かべているに違いない。鏡で見たら、吐気すらも覚えそ
うな程に。もう、蓉子の顔なんか見ていない。きっと怯えた哀れな羊と同じなのだから。
さっきから抵抗らしい抵抗も無い。此れでお漏らしでもすれば完璧なのだが。
カッターを口に咥えると、服の真ん中に空いた布地を両手で一気に引き千切る。びりび
りと音を立てて千切れる洋服。だらしなく引っかかっている、分かたれたブラジャーが露
になった。
 「ちょっと、聖…」
 聞かないよ。貴方の言葉なんか。聞いてなど、やるものか。
 へたれた布を払いのけると、桜色の上気した胸が呼吸に合わせて上下に震えている。
 私は、片方に口をつけ、もう片方をカッターの刃の無い部分で弄ぶ。金属越しに感じる
こりこりと膨らむ先端の感触、舌に包まれて勃起した乳首の感覚。
 わざと音を立てながら、胸をしゃぶり続ける。時々、噛みながら、赤黒い涎を纏った指
先で凹ませる様に捏ね回した。其の度に、強い反動を与えながら、勃起し続ける乳首。
 胸を弄んでいたカッターを今度はまたスカートへと忍ばせる。
 「やめて、聖!」
 「暴れると、切れちゃうよ」
 先程と同じ要領で太股の付け根の骨と下穿きの間へと刃を滑り込ませると、今度は躊躇
い無く刃を滑らせた。ぷつりとした物が切れた特有の感触。唇に付いた傷をわざと触れる
様にキスをしながら、下着を払いのけ、先程まで引っ掻いていたクリトリスをカッターの
刃でなぞる。傷口が付いていたのは、此処ではなかったのか、肉に埋もれる事は無かった
が其れでも血でべたべたになっている事だけは分かる。突付きながら、下手糞な人間が包
丁で物を切る様に刃を動かすと先程とは違った硬さを感じた。
 「いやぁぁっ…いたっ…はぁぁっ」
 キスを止めると、かくかくと顎を震わせながら、拒絶の声が。
 其の声を聞いて、私は手の中でカッターを返すと、今度は刃を彼女の淫芽へと滑らせた。
浅く肉へと食い込む刃。ずぷりと深く差し込む。摩擦が徐々に少なくなっていく。残念ね、
蓉子。貴方に快感なんかあげないよ。苦しんで、苦しんで、苦しんで、裏切られた痛みを
知ると良い。私の事が好きなら、私の事が分かったと言うならば。心の痛みを躯の痛みと
して知ると良い。
 「ひやあああああああああ!」
 もう、喘ぎ声などではない。あるのは、痛みを訴える死への拒絶。
 「あら、そんなに気持ち良い?」
 くつくつと嘲笑いながら、私は刃を尚も突き立てる。止めてなど、やるものか。
 蓉子、貴方の目が屈辱と苦渋に彩られるまで、私は止めない。
 どんな顔で泣くのか、見てやろう。
 「…聖、此れ…があな…たの…望む事?」
 尚も、否一層強く光る瞳が。
 やめ…て。
 見ないで…見ないで、蓉子…
 そんな、そん…な眼を…わた、しに…
 「こ…で、あな…は…救わ…の?」
 途切れながら訴える。やめ…て。わ…を…んな…で…ないで…
 みな…み…
 「見るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 膣の中へと刃を突き立てる。そのまま、中から子宮の壁を突き破り、切りつける。ばき
りと途中で肉に阻まれて、刃が折れても尚、私はカッターを動かす手を止めない。刻み、
切りつけ、襤褸雑巾の様にぼろぼろに子宮を切り裂く。
 「ひゃああああああああああああああああああああああああああああ!」
 蓉子の甲高い声が響く。何時の間にか、肩を握る手に力が籠もる。女の手に此処までの
力があるのだろうか。
 びちゃりと音を立てながら、引き抜かれた刃。血を吸って重たくなった腕を持ち上げて、
がりがりと刃を抜き出す。
 そして、彼女の目へと。
 「止めなさない、聖!」
 私の下でびくびくと痙攣し続ける蓉子へとナイフは突き立てられなかった。
 宙で止まった手。掴まれた腕。力の籠もった指先。
 「何を…しているの、貴方は!」
 声。お姉さまの強く、優しい声。
 一気に現実が私の中になだれ込んで来る。
 私の下で荒く、細く息を吐く蓉子の下腹部は血で濡れて真っ黒に染まっている。何より
も暗く、何よりも深く、何よりも重たい色。
 私は…何を?
 何をしていた?
 彼女に…自分を受け入れようとしていた彼女に何をした?
 「ああ…」
 まただ。また、あの慟哭が。
 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
  ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
  ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
  ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 お姉さまの手を振り払うと、私は血塗られたカッターと腕を抱えたまま、部屋を飛び出した。
 

 誰の家の物だか分かりもしない塀に凭れかかりながら、私は腕を伸ばした。
 空からは白い雪。そして、青い月の光。
 雪は全てを覆いつくし、白く染め上げるなどと言ったのは誰だろう。私は信じない。こ
んなにも私の腕は醜い赤で汚されたままなのに。雪は決して、私を癒してなどくれない。
私を消してなどくれないじゃないか。信じない。私は信じない。
 月が綺麗だった。青く、白く、静かに私を飲み込んで…
 月?
 何故、月が出ている?
 雪の降る日に何故、月が出ているのだ?
 そう思った瞬間、雪が真白い羽根へと姿を変えた。空から舞い落ちる羽根の欠片、地面
へとうず高く積もった羽根、羽根、羽根。羽根の海の中に私は沈みそう。
 此れは佐藤聖の羽根。片翼を失った、悲しきカナリヤの翼。
 此れは久保栞の羽根。天高く舞い上がった、傷ついた天使の翼。
 此れは水野蓉子の羽根。ずたずたに引き裂かれた、死にゆく野鳥の翼。
 そう、此れはありもしない、虚妄。
 全部嘘。皆嘘。嘘。嘘。嘘。
 嘘の景色。
 「はは…」
 乾いた笑い声が喉を突く。溢れ出していく。
 虚妄。妄想。虚構。迷妄。悪夢。そう、悪夢。皆、夢。私が見ている夢。何もかもが現
実とはかけ離れた、途方も無い、取り止めも無い、どうしようもない、只の幻想。
 「はははははははははははははははははははははははははははは」
 覚めてしまいたい。
 目覚めたら、きっと私は躯の熱でぬるまった布団の中に居るに違いない。そして、また
日常が。栞が居て、栞が笑って、栞が拗ねて、栞が私を愛してくれる暖かい現実。こんな
凍った羽根とは無縁の、完全で、完璧で、安らぎの溢れた、世界。
 「ははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
 ならば、覚めてしまおう。此の眠りから。
 手元に転がっていたカッターを握る。血で滑つく。力が巧く入らない。其れでも良い。
 此れは夢なのだから。
 私は、首筋へと刃を当てて、深く力を込めて、一気に引き抜く。
 だばりと体中から何かが抜けていく。溢れ出て、地面を埋める羽根を赤黒く濡らしなが
ら吹き上げる血と一緒に、何かが抜け落ちていく。
 ぼとぼとと流れ落ちる。魂が、命が、何もかもが抜け落ちていく。
 「…聖」
 お姉さまの声が聴こえる。上の方からゆっくりと、優しく。其れでも、目の前が霞んで、
もう何も見えない。
 「貴方は…やっぱりカナリヤなのね」
 そっと頬に何かが触れた。暖かくて、とても暖かくて、心底凍りついた私の身体が解け
ていきそうな程に、暖かくて。
 「野鳥に紛れ込んだ自分を憐れむだけで、只憐れむだけで何もしない。どんなに辛い思
  いをしても、どんなに寂しい思いをしても、野鳥として生きていこうともしない。野
  鳥達が、どんなに貴方を優しく包み込んでも、自分から其の手を振り払い、飛べない
  振りをして、一人で悲しがっているだけの」
 顔に柔らかい感触が。私はお姉さまの腕に抱かれているのだろうか。
 「私が見たかった貴方の顔は…そんな顔ではなかったのに」
 温い。一筋の雫が私の髪を伝って、頬へと落ちた。
 「貴方は…本当に…カナリヤなのね」
 私はゆっくりと両腕を空へと掲げた。
 「しおり…」
 エリ、エリ。
 「なぜ、わたしをみすてたの?」
 ラマ・サバクタニ。
 空には月。
 雲一つ無い群青色に浮いた、青い月が鮮やかに輝いていた。


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