春 夏 秋 
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 ―神は死んだ。人間に對する同情の故に、神は死んだ。

 古ぼけた映画が、掠れながら映し出す輪郭のみを浮き彫りにした映像は、誰も居ない世
界。全色盲の幼児の描いた絵の如く、全てが色彩の欠けた濃淡だけで其の存在を映し出す、
一つの庭。真ん中に敷かれた祭壇に腰を掛け、流れゆく雲だけを眺めていた。鳥の声も、
風の唸りも、草の囁きも、自身の吐息さえも、モノクロへと埋もれてゆく。
 鉛色の大地、墨色の空、溶解していく白い陽の光。
 庭園を、架空の楽園を彩るものは、只それだけ。
 遠く、低く、ざわめき合う人の声は、自分の元には辿り着かない。
 誰も居ない、誰も訪れない、誰も触れようともしない。
 静かで、穏かな、陰翳の楽園。
 そっと其の中で、横たわる。
 目の前にひらひらと舞い踊る一羽の蝶。白い翅、黒い紋様の浮いた一匹の紋白蝶。手を伸ばし、
指先に棲まわせようとしても、縛られた様に自分の身体は動かない。何も出来ないまま、蝶が過
ぎ去るのを待つばかりで。数度鼻先で踊るきり、後は風に任せて飛び去るのを見つめるばかり。
 そして、後は只白い空が広がるだけ。
 涙も出ない、悲しくも無く、寂しくも無く、空虚だけが胸を塞ぐ。
 其処で夢は途切れ、ぐったりと布団に身体を横たえた自分を感じる。目の前に広がる暗がりの
天井、壁紙の模様さえも見えない真っ暗な空が口を開けて。
 幾度と無く心に染み付いた夢の状景。覚める度に、ぐったりと疲労だけが四肢に圧し掛かる。
癲癇を起した子供の様に、焼きついたネガを振り払う様に、びくりびくりと身体が痙攣する。喉
が渇く。枕は跳ね除けられて、床に落ち、布団に押し付けた視界には暗がりが目蓋の裏でがりが
りと回る万華鏡の様な色彩だけを残し、思考を軋ませる。握り締めた指には力は失せ、だらしな
く垂れた唾液の臭いが丸く鼻をつく。込み上げる吐気と耐え難い渇望。幾度と無く名を呼べど、
輪郭だけを残した少女は振り向きもしない。答えてはくれない。一瞥もくれぬまま、其の流れる
様な長い髪だけを風に揺らせて、彼方を見つめ。
 其の先に、何が居るのだろうか。
 二千年前の亡霊が私を嘲笑う。丁度、あの彫像の様に。
 穏か。穏かだと。笑わせる。何時だかに聴いた事がある。仏像は決して微笑んでなど居ないと。
 目の前に坐り、見上げる時に、須らく苛む様に此方を見据えているのだと。あれは笑ってなど
いない。あの女は誰にも笑いかけてなどいない。ロールシャッハのインキ。見る者、聴く者、跪
き、崇める者全てを嘲笑っている。神は死んだ。もう死んだのだ。其れなのに、誰もが其の事を
口にはしない。しないまま、平然と祈りだけを続けている。誰もが口を閉ざした事実に牙を剥く
者に、あれは笑いなどしない。許しもしない。只、高みから其の子を抱いて、軽蔑を投げるだけ
だ。穏か。穏かだと。ふざけるな。あの忌々しい像を此の世から全て打ち壊してしまえ。深層に
巣食うあの忌まわしい亡霊を。そうすれば、私は。
 目を覚ますと、体中には汗がべっとりと貼りつき、厭な匂いを立てていた。安宿のベッドがつ
いた手の重みで軋む。スプリングが膝を打ち、骨を抉られる様な痛みが鈍く滲む。吐息が荒い。
頭が軋む。目の前は真っ暗だった。窓の外には薄暗い雲が立ち込めて、月の灯りも届かない深い
黒が犇めいている。家の明かりなど見えもしない。厚い黒が私を塞ぐ。一人きりでのた打ち回れ
と罵る幻聴が聴こえてくる。指先が痺れて死に果てた虫の様に硬直したまま動かせない。関節が
一ミリ動く度にぎしりと錆付いた機械の軋みを立てる。耳鳴り。絹を裂く音にも似ていた。鳴る
筈の無い電話のベルがけたたましく頭を歪ませる。ぽつりぷつりと額から漏れた汗がシーツに染
みを作る音が聴こえる。只一度眠りに付いただけなのに、全身が垢に塗れた臭いがする。気持ち
悪い。焦点が定まらない。未だ黒い。光が無い。鼓動が高鳴ったまま、元に戻らない。歯車が欠
けた機械が立てる不協和。そして、フラッシュバックし続ける夢。灰色の、一切の色と云う色が
抜け落ちた状景が断片的に頭を埋め尽くし、煮詰まった不安と孤独が胸を詰らせる。其の度に、
身体が拒絶し続ける。びくりばたりと痙攣が不規則に起こり、ベッドを軋ませる。のた打ち回る。
死に際の鯉の様に。止まれ。叫びなど意にも介さずに、尚も身体は痙攣し続ける。止まれ。びく
りばたりとベッドが軋む。止まれと…言っている!
 震え続ける身体を自らの腕で抱き止め、顔をベッドへと押し付ける。荒く吐く息が、噎せ返る
様な蒸気となって、口の中へと舞い戻る。渇く、喉が渇く。二の腕を握り締める指先から爪が剥
がれていきそうだ。血が滞る。其の内に腐り果て、ずるりと落ちてしまう錯覚。痙攣が止まない。
小康状態にもならない。尚もがたがたと寒さに怯える子供の様だ。縋る先も無い、行く果ても無
い、たった一人きり、マッチをするより他に無かった、少女の様だ。ぽつりと浮かんでは消えて
いく炎の先に幻覚を見ながら、凍っていった。
 「聖…?」
 隣で静かに寝息を立てていた彼女が、眠気を声に混じらせながら、私の名を呼ぶ。
 「なんでも…」
 ないと告げたいのに。私の唇は何一つ言葉を紡いではくれない。渇き切った喉が、乾涸
びた舌先が、夢に磨耗した心が、何一つ意味在る言葉を紡いでなどくれない。只、だらし
なく顎を揺らせるだけで、白痴じみた嗚咽にも似た息を吐くばかりで、何一つ、私に言葉
を言わせてなどくれない。彼女の声が心に絡みついた灰色を僅かばかりにでも解いてくれ
たと云うのに、其れ以上に深く結びついて。私に言葉をくれない。
 少し間の空いた彼女との感覚、ベッドとベッドの合間に広がる溝を彼女は通り越し、そ
っと私の身体を抱いてくれた。未だ眠りの温もりが抜けない身体で私の躯を、心を、虚を
抱いて、其の胸に埋めてくれる。私には、此の温度より他に何一つ持ってなどいない。彼
女の心に何が棲んでいようとも、私には此の温もりより他に居る場所など無い。
 「どうしたの、聖」
 永遠に別たれたままの、私の躯。人は如何して、一人きりで生まれてきてしまうのだろ
うか。愛する者の胸に抱かれながらも、其の孤独に震えなければならないのであろうか。
神よ、教えたまえ。そして、正したまえ。哀れなる子羊の誤謬を、此の孤独を。もしも、
汝が我らを一度たりとも愛しているのならば。一度たりとも、我らの事で偉大なる心を痛
める日があったのならば。教えたまえ。そして、正したまえ。何一つ得る事の出来ない愛
の意味を。嘲笑うあの売女の顔など踏みつけて、救いを求めし子羊に、一片の慈悲を恵み
たまえ。救え。救いたまえ。もし、汝が生きているのだと云うのならば、救って…みせろ!
 「…聖?」
 彼女の胸の裡、私はぼろぼろと涙を流しながら追い縋る。二度と離れてくれぬ様に。絡
み合い、繋がり合って、一つに溶け合える様に。私は、産まれの河へと戻る鮭の母の様に、
彼女の身体を這い上がり、未だ晴れぬ暗がりに汚された白い顔へと、薄紅の唇を求める。
涙で滲み、塩の味のする口づけを求めた。今は見ていない。誰も、見てなどいない。拒ま
ないで欲しい。今、拒まれたら、私はきっと地面へと叩き付けられたセルロイドの人形の
様にばらばらに砕けてしまうから。もしも、私が好きだと云う言葉に偽りが無いのならば、
二度と拒んでくれるな。
 彼女の腕が私の背へと回る。抱すくめ、初めて彼女の舌を受け入れた。何時もならば、
私が其の歯の隙間へと暴虐に挟み入れる舌が、初めて。そっと、流れては落ちる涙を飲み
干す様に、唇の隙間へと流れ込む涙を掬い取る様に、歯を撫で、渇き切った舌に潤いを与
えてくれる。優しく、包み込む。こくりと流れてくる彼女の唾液を私は飲み干す。染み渡
ればと願いながら、がさがさに渇き切った、夢で爛れた此の躯に染み渡らん事を祈りなが
ら、彼女の与えてくれる温もりと水を貪った。尚も涙が止まらない。失った筈の母に受け
止められる子供、一人きり千年の孤独に耐えながら洞窟の底で蹲り続けた者の様に。
 栞、栞。
 幾度無く、果てる事無く彼女の名を心の底で叫びながら。
 そっと、彼女の温もりが離れていく。唇と唇の間に唾液の糸で出来た橋を架けながら。
 「聖…如何したの?」
 優しく透き通った彼女の声が耳を擽る。耳鳴りは今は遠く。あるのは、彼女の鼓動の音
と、窓の下、外を走る車のタイヤが鳴く悲鳴。其の他には何も聴こえない。
 「夢を」
 なんでもないと告げようとした唇が勝手に言葉を紡いだ。
 「夢?」
 「そう…夢を、見た」
 誰も居ない。彼女も誰も居ない。只一人きりだけの灰色の夢を。
 「そう…」
 何も問わず、何も云わず、頷いて私の身体を抱いた腕に少しだけ力が籠もる。肩に自ら
の首を押し付け、温もりを、香りを、存在を、逃げぬ様に、離れぬ様に、埋もれた。今一
度、もう一度、更に強く彼女と繋がりたい。情欲では無く、薄汚れた感情では無く、此の
躯に深く埋もれたい。感情が心に犇めく。ぞくりと心臓を撫で、背筋を凍らせる。
 「栞…」
 再び唇を合わせた。
 今度は私から、何時もと同じ様に、暴虐に熾烈に残虐に苛烈に勝手に、縋る。彼女は拒
まない。滑り込んできた赤黒い舌を、そっと抱き止める。食べる物が口に入れる先から炎
に変わる地獄の餓鬼の様に私は彼女の舌を貪った。くちゃりと水音が鳴る。漸く暗がりに
慣れた視界、そっと目蓋が落ちる陰翳を見た。尚も絡まる舌を解き、瞳を覆う皮の上に唇
を重ねる。吸い取って、其の瞳が私の物になる様に。なすがままに、私の中で縮こまる彼
女の姿。宿のクローゼットの中にしまってあった浴衣の袖を、細い指先が握り、幾らかの
苦痛を私に訴える。ゆるゆると唇を頬へ、顎を伝い、首筋へと落としていく。指先の嘆き
は苦痛から酩酊へと変わっていった。そんな、気がした。鎖骨を舌でなぞり、其処でそっ
と彼女の身体をシーツの上へと横たえた。恥じらいながらも、解かれた指先が私の耳を覆い。
 「聖…お願い」
 懇願の声。何を求める。私に、何を求めて居るのだろうか。
 「私を…犯して」
 さっきみたいに。そう、瞳で訴える。彼女は確かに、私を求めていた。

 幾らクリスマスだとは云え、こんな場末の安宿に泊まる者も少なく、大浴場は私と彼女
の二人きりだった。一緒に死のうと告げられた其の日に、私達は街を出た。手持ちのお金
も電車代と宿代で直ぐに底を付き、一介の高校生に出来る事は数限られて居るのだと思い
知らされた。行き浮いた場所は、東京からはそう遠くない、温泉場。みすぼらしさが垢と
なってタイルに染みて、くすんだ青色が元の色彩を失った大浴場に私と彼女二人、肩を寄
せ合う様に浸かっていた。鼻をつく甘ったるいシャンプーの香り。湯の煙に混じる特有の
硫黄。只、掛け流される水が立てる飛沫の音だけが広い空間に犇めいていた。
 目を閉じて、細い肩に首を預けて、体に沁みる温い針に身を委ね。此の湯の中に、全て
が溶けてしまえばと。蟠り、泡を立てて濁り続ける、何もかもが。さらりさらりとばさつ
いた髪が引っ張られる感覚。薄目を開けると、彼女は何も云わず黙々と、私の髪と彼女の
髪とをあみだに編んでいた。何時か、温室でしていた様に。
 「…何をしているの?」
 くるりと顎を返し、濡れた髪の隙間に揺れる鳶色の瞳を見つめた。少しだけ顰めた顔、
薄く開いた目蓋が、流れ落ちた前髪に遮られている。格子の中で彼女の硝子が只編まれ続
ける髪だけを見つめていた。
 「…気にしなくて、いいよ」
 突き放す様な声に、そうと呟いて答えるより他に無かった。再び首を回して、元の位置
へ、彼女の肩へと預けるだけ。砂時計の瓶の中、色の付いた細かい粒子が重力の腕に引き
摺られて下へと落ちる。只髪が編まれ、私は未だ温まらないままの彼女の躯に凭れている。
私達は、余りにも無力なのかも知れない。只、逃げるより他に道は無い。何一つ、二人が
二人のままで居られる距離を知らぬまま、濁流に飲まれた枯れ葉の様に、留まる事も出来
ず、逆らう事も出来ず、先も見えず、前も見えず、流されるばかり。目を閉じても、其処
には見慣れた暗がりが息を潜めているばかりで、其れ以外には何も見えなかった。幾度と
無く手を合わせ、祈り続けた、聖母がどんな風に笑っていたのかも、思い出せない。如何
して、自分は此処に居るのか。そんな疑問も思い浮かばない。只流れ着いただけ。濁流に、
彼女の濁流に、自分の濁流に。丁度、あの掛け流される湯の様に。只、一時だけ浴槽に留
まっただけ。後は穴に飲まれて、地の底へ。返る事も、逃げる事も無く、ただただ。
 彼女の指先が、動きを止めた。そっと目を開くと、編まれた筈の髪が水に解けてばらば
らになっているだけ。癖もつかずに、広がるばかり。
 「…聖」
 答える代わりに、裸の肩を彼女の腕が抱いた。より近く居られる様にと、引き寄せなが
ら。私は、彼女の胸の上、頭を預けて、指先を太股へと滑らせた。未だ冷たい。何時にな
ったら、彼女の身体は温まるのだろうか。
 「栞…」
 そっと顎が持ち上げられて、唇が奪われる。くちゅりと水音が耳元で聞こえた気がした。
拒む事も無く、入り込んでくる舌先に自らを重ね、絡ませ、結び合う。
 「ん…」
 息が少し苦しい。胸を水が圧迫して、上手く呼吸が紡げない。其れでも私は解きもせず、
一層に強く彼女を啜り、飲み込まれる。太股に置いた指が僅かに爪を立て、水面で歪む肌
の上に疵をつけた。其の時に、すうっと唇が離れた。
 「痛いよ」
 苦笑いを浮かべながら、顎に当てていた手を水へ投じ、私の指を絡め取る。合間に温い
湯が混じり、溝を深めてしまう。其れでも、尚強く。再び重ねた唇は、何処か塩の味がす
る。多分、涙じゃない。満たされた湯の味なのだろうと思う。そうでなければ、味の中に
苦味など混じっている筈が無い。逆上せた様に、額に熱病を患った様な茫洋とした塊が圧
し掛かる。目蓋を、開いたままにしてはくれない。軽い酩酊。息が苦しい。溺れてしまい
そうだった。
 肩に掛けたままの腕がそっと私をまた引き寄せる。彼女の膝に身体を預けてしまい巣に
なる程近くへと。肩からするりと二の腕を撫で、脇を過ぎ、お腹を抱え。其処で、指先で
痕をつける様に、爪を立てながら、這い登ってくる。胸の膨らみの終わり、肋骨に程近い
場所、肉の曲線をなぞる様に指が這う。力で僅かに形が歪む。
 「せ…い?」
 辛うじて呟いた彼女の名は息で汚れて途切れてしまう。
 「…いや?」
 悲しげにまた濡れる。御堂で見た、あの時と同じに。私は首を振り、弱々しく否定を続
けても、其の色は抜け落ちない。
 「いや、じゃないけど」
 首筋へと猫が甘える様に頬を擦り付けながら、言葉を紡ぐ。
 「けど?」
 「…こんな所で、なんて。恥ずかしい」
 くすりと柔らかく漏れた声は、何よりも優しい彼女の微笑みだった。其れでも、胸を歪
ませる指先は意地悪く敏感な所を避けながら、ゆっくりと弄び続ける。
 「誰も、来ないよ」
 無責任にも聴こえる言葉に少しだけ拗ねた様に私は「来たらどうするの?」と問う。尚
もくすくすと零れる笑いと、正反対に私の胸をまさぐる指。
 「困るね」
 「困る、だけ?」
 其れだけじゃないけど。そう呟いて、じっと私の瞳を見つめ。鳶色、青い輪に包まれた、
綺麗な薄いこげ茶色。でもね。
 「私は、栞が欲しいの。どうせ此処で息絶えるのならば、限られた時間はずっと繋がっ
たままでいたい」
 「そんな…」
 そんな言い方は、卑怯だと思う。
 「駄目…かな?」
 そんな目をして云うのは、心底卑怯だ。私は、言葉を返さずに、彼女の躯へと自らを預
けた。耳元で、ありがとうと呟く声。
 「でも…此処ではいやよ」
 膝の上で絡まった指を解き、彼女の躯から離れる。甘たるい情欲が湯気と共に身体に沁
みていく。胸が熱く塞いだままで、肺を苦しめる。其れでも、逃すまいと腕を伸ばし、私
をまた引き寄せて。今度は、抗えなかった。
 「駄目、此処が良い」
 背中から抱き締めて、耳元でそう呟き、舌で耳の骨をなぞった。そわそわと背筋にくす
ぐったさにも似た刺激が通り抜けていく。輪を描き、唇で耳朶を食む。水に濡れた産毛が
さわりと逆立つ。後ろから伸びた彼女の腕が私の手を膝の上で縛る。行儀良く座る子供の
様な格好。首筋の上に浮いた汗の混じる湯の雫を、肉の筆が舐め取っていく。歯を立てて、
軽い傷をつけながら。首の終わり、肩の上も舐めながら、立てる歯の強さが増して、軽い
痛みを覚えさせる。
 「痛い…」
 「さっき、痛くしたから、其のお返し」
 くすりと笑う吐息が裸の肩を撫でた。手を抑えていた腕が優しく解かれて、お腹を抱え
る。脇腹を、肋骨の上を撫で、胸の脹らみを両の手が捉えた。首筋に歯を立てながら、指
先が胸を撓ませる。ゆっくりと撫でる様に、猫の首を掻く様に時折爪を立て、乳首の周り
に染み付いた薄紅の輪を掻いていく。ぷつぷつと浮いた肉の粒を一つ一つ丁寧に、潰しな
がらなぞり上げ。甘い息が唇から少しだけ漏れた。膝の上に乗せたままの両手の指は、互
いを握り締めながらも、ぴくりとも動かす事も出来ない。見えない鎖が縛り付けている。
 輪を描いていた指先が突起に触れる。ぴくりと痺れが一筋の矢の様に、背筋を行き過ぎ
る。思わず身体を竦めると、背中に柔らかい感触。そして、こつりと小さな突起が触れた。
 「ん…」
 耳元に流れ着く甘い息。興奮しきった乳首に触れて、彼女にも同じ痺れが走ったのだろ
う。私は、自分の肌で彼女が快感を感じる事に、妙な気恥ずかしさと嬉しさを噛み締めた。
思わず漏れた悦楽を隠す様に、指先が尚も私の乳首を引っ掻きながら、押し潰し、くりく
りと肉の中に埋めながら、抉る。じっとりと汗が溢れる。目の前に広がる、湯気越しに見
えた窓硝子には膨れ上がったモザイクが散る様に白い雪が見えた。窓の桟に降り積もり、
青く結晶を凍らせて。いずれは此方の温もりに溶かされて、消えてしまう儚い一時の雪の
華が咲いていた。執拗に、揉みしだき、削る様に攻め立てる指先と、肩まで浸かる湯の熱
が私から何もかもを奪い去る。もう、霞んで目の前が荒い白に埋もれていく。胎の底から
じっとりと情欲の蜜が溢れ出て、私達を包み込む温い水を汚している。ぷっくりと勃起し
た乳首を、何度も何度も、潰し、捏ねて、腹を掻き、埋めては、弾く。其の一つ一つが私
の中で、日常を殺し、光を殺し、只彼女との愛撫に溺れさせる。其れ以外何も、考える事
も出来なくなっていく。飢えた。私は、彼女の愛に飢えつつあった。
 「栞…」
 もう声さえも遠い。茹で上がった頬が暑苦しい。
 「な…に?」
 そっと私の身体を抱き上げると、彼女は私を湯船の外へと連れ出す。彼女は以前、中に
浸かったままで。くたりと脚から力が抜けて、上手く立つ事が出来ない。ぺとりと犬の様
な格好で、這い蹲ってしまう。丁度、彼女の目の前にお尻を向ける姿で。太股を湯とは違
う雫が伝う。ひくりひくりと子宮が疼く感覚。彼女は、私のアヌスに舌を這わせた。むず
痒く、排泄の時にも似た疼きが走る。
 「や…恥ずかし…」
 制止の声など聞きもせず、尚も彼女は私のお尻の肉を掴み、そろりそろりと嘗め回す。
うっすらと茂った毛さえも口に含み、啜り、引っ張りながら。菊の穴の中に、彼女の舌が
割り入る。異物感と羞恥、そしてもどかしさと疼きが滲み出る。タイルの上に頬を擦りつ
け、唇を噛む。紛れてはいった自分の髪は味の無い味がした。舌に絡まる。くちゅりくち
ゅりと骨を伝って、僅かに自分のお尻の穴を啜られる音が耳へと伝わる。お腹の中に溜まっ
た滞りが今にも溢れそうで。其の時に、ぬぷりとした更なる違和感が背筋を走る。指が、
彼女の小指が穴の中に入れられた。直腸をざらついた皮膚が抉る。痛みと羞恥、疼きと焦
燥が込み上げて、喉を塞ぐ。目を開いてなど居られなかった。自然と声が溢れ出る。
 「ぃ…ああ…!」
 じりじりと虚ろな炎で炙られている様で、背徳の痛みが心を犯し始めている。かくかく
と足が震えている。握り締めても、爪が硬いタイルを掻くばかりで、爪が根こそぎ剥がれ
ていきそう。何処に逃げるでもない情動が身体の中でとぐろを巻く。ぬぷりと指が抜け、
また舌が上をなぞる。未だ指が中に入っている様な感覚の残滓が、舌の愛撫につられて更
なる疼きを覚えさせた。びくりと今までで一番大きな電流が体中を駆け巡る。彼女の指先
が、私の陰部に触れたのだ。なぞる様に肉の唇を掻きながら、皮を掻き分けて、肉の芽へ
と伸びて。十字の爪痕をつける様に、かりかりと掻いては、抉る。乳首にされていた時よ
りもずっと重く強い刺激。漏れ出る息に声が混じる。堪える事など出来る筈も無く。自動
的に、其れ以外の言葉を忘れてしまった。
 「ああ…! せ…い…!」
 返事は無く、淡々と、焦らしながらも激しく責め立てる指。親指で淫芽を潰しながらも、
他の指が膣へと入り込む。膣壁を掻きながらも、何度も何度も入れては出して、また入れ
る。胎からはべっとりと淫乱な蜜が止め処なく溢れ、彼女の指を、顎を、自分の太股を濡
らしているのが分かる。二度目は最初よりも早く、三度目は二度目よりも重く、四度目に
はもう手首さえも埋める様に、彼女の指先が私の中で蠢いた。びくりびくりと血の流れに
紛れて、悦楽が駆け巡り、私から思考と云う思考を奪い去る。何も考えられなくなる。彼
女の指と舌が与える刺戟よりも他には何も。空白が頭を埋めていく。外に降る雪の様に、
降り積もって、真っ白に染め上げる。荒く息を吐き、僅かに揺れた肩越しに彼女を見ると、
白いお腹の上に自らの腕を埋めて、自分で自分を慰めていた。私を感じながら、彼女も快
楽へと沈む姿。二つに別たれたまま、私達は種を持たないから。だからこそ、互いを見つ
め、互い自身で慰めなければ、何も得る事は出来ない。身に犇めく刺戟に翻弄されながら
も、辛うじて残った心が疼く。決して心地の良くなど無い痛み。何も宿す事の出来ない私
達は、其の証も無く、只繋がって死んでいった蝉の様に、繋がりながらも孤独なままで果
てなければならないのか。マリア様、教えては下さいませんか。同じ性を受けた者同士は、
如何して最後まで愛し合えないのでしょうか。互いの温もりを最後まで感じられないまま、
朽ち果てなければならないのでしょうか。教えては下さいませんか、マリア様。何も失わ
ない、誰も傷つく事の無い愛だけが、正しい事なのでしょうか。私達の愛は、何故こんなに
も、虚無を開拓する様な、うず高く積みあがった羽根を選り分ける様なそんな空しさばかり
しか得る事は出来ないのでしょうか。
 絶頂が近い。上がる声が速度を上げて、喉から込み上げては、誰も居ない大浴場に響き
渡る。反響が共鳴を産み、唸りとなって耳を塞ぐ。
 「聖…! 聖…!」
 「しお…り…!」
 呻きが私の名を呼ぶ。もうお互いが限界に近かった。
 「聖…! もう、私…聖!」
 「栞…栞…!」
 私達は互いの名を叫びながら、同時に果てた。
 数分の空白。数秒の虚脱。甘い痺れが未だ抜けない。タイルの上に横たわる私の上に彼
女が圧し掛かった。そっと頬に、そして唇に優しく口づけを。
 「…汗、かいちゃった」
 拗ねた声で私は抗議をした。全身にはもう湯など残っていない。汗だけがべっとりと貼
り付いて、幾分かの不快感を与えていた。
 「そうね…洗いっこでもする?」
 くすりと甘い笑いが耳を擽った。唇に自然と微笑が浮かぶ。
 「…ばか」
 私達は、恋人達がする様に、暫らくの間甘く抱き合っていた。

 暗がりの中、はだけた浴衣に浮かぶ彼女の裸は、うっすらと青白く光り、まるでマネキ
ンを見ている様だった。薄く上下する胸、目を閉じたまま、身を委ねたきりで、一つの言
葉も発しない姿は、人形其の物で。胸の谷間から臍にかけて、舌を這わせる。眠気の抜け
ない体が覚える温もりだけが彼女が人である事を示していた。臍穴へと抉りながら、はだ
けた浴衣の隙間へと手を這わせ、胸を掴み上げる。柔らかい弾力、丸みを帯びた肉の線を
撫で上げ、掴み、揉みしだく。眠っていた胸の突起が、私の指の動きに倣い、徐々に血を
通わせて硬くなっていく。私の手の中で、彼女の中の欲の華が開いていく。其れが、孤独
で枯れた、夢に殺されかけた心に一抹の安息を。私は一人ではないと、初めて思えた。
 『一緒に死のう』
 そう問うた時に、ゆっくりと頷いた彼女の顔。其の為に、私達は有り金を叩き、此処ま
で来たのだから。東京からはそう遠くないとしても、劇的な場所ではないにしても、場末
の、申し訳程度の風呂がある、安宿の痩せたベッドの上だとしても。私には其れで十分だ
った、其れで満足だった。彼女と共に死に、常世で結ばれる。其れ以上に、何を望むだろ
うか。此の心の虚を埋めるのに、他に何が必要だと言うのか。
 眠りから覚めて、硬く閉じたままの陰部を舐め上げる。渇き切った身体。小指の先さえ
も入り込めない程に狭く縮こまった秘部を啜り上げる。詰った息が少し漏れる様な声が遠
くで聴こえた。胸の愛撫をそこそこに、私は彼女の股座を必死に貪った。喉の渇きに喘い
で、漸くありつけた水を貪る。僅かに持ち上がった脚、太股を下から掬う様に抱き、顔を
其の合間に埋めた。機械的とも想える程に単調な、作業。此れが最後の契りになるかも知
れないと云うのに、私は淡々と彼女の陰華を濡らすだけ。自分の唾液の味に少しずつ別の
味が混じり始めた。甘酸っぱい、蜜の味。僅かに、膣の入口が熱を帯び、開いていく。更
に、私は舌を進め、中まで差し入れた。未だ渇いている。未だ彼女の中は渇いたまま。何
時になったら、さっきの様に濡れそぼるのだろか。其の瞬間までの間に久遠の時が寝そべ
っている様で。心を焦りが焦がしていく。じりじりと、写真を焼いた時の様に。其れでも、
私は只舌を上下に、左右に、円を描き続け。息を吸う度に、ずちゃりと水の音がする。唾
液に空気が入り混じる音。未だだ、未だ濡れてはくれない。
 其の時、僅かに衣擦れの音が聞こえた。薄く茂った陰毛を通して、見上げる。闇の中に
蠢く白い影が。彼女の腕が胎に圧し掛かり、自らの胸を自らの指で揉みしだいていた。先
程の愛撫で硬くなった乳首を、今度は自身の手で、いやらしく、ねっとりと責め立てる。
其の度に、甘い吐息で太股が震えている。挟み込む様に、私の顔を足が圧迫し、締め上げ
る。生温い温度。滑らかな陶磁器に挟まれている。如何して、このまま私達は一つに解け
合って、形も無くなる程に混ざり合ってしまえないのだろうか。もう何も望みはしないの
に。彼女と果てる事より他に何一つ。其れなのに、私達は依然、別たれたままで。こうし
て、互いに慰めあわなければならなければ、繋がる事も出来ない。舌の上に蜜の痺れがだ
らしなく横たわる。むっとした汗の匂いに混じる発酵した香り。彼女の中から漏れてくる、
淫猥な。其の元を、私は再度貪った。もっと、もっと濡れてくれ。私の舌で感じて、受け
入れてくれ。只一時だけ、私達が一人きりではないと騙してくれ。
 ぴちゃりぴちゃりと水音が暗がりに響く。彼女の陰部が私の唾液と自らの蜜でべたべた
に濡れていた。もう舌は麻痺してしまい、只水を舐める様な感覚しか覚えさせないでいた。
身体をそっと離し、自らの浴衣も剥ぎ取った。黒の中、猫の目の様に彼女の瞳が此方を見
据えている。私を求め、震えていた。股の間に、自分の足を割り入れて、陰核同士が擦れ
合う様に重ねた。ゆっくりと腰を上下に振るう。もどかしい、微々たる刺戟が腹を這い上
がる。にちゃにちゃと音が立ち、甘痒い感覚が股に走る。何度も何度も腰を振るい、互い
の敏感な部分を擦れ合わせ。横に倒れた彼女の頬を、瞳を髪が覆い、完全な黒に紛れてい
く。何も見えない。彼女が泣いているのか、笑っているのか、悦に浸っているのか、苦痛
に喘いでいるのか。何も見えない。何も。其れでも、私は腰を振るう。一時でさえも、瞬
きするよりも短い一瞬でさえも、逃さない様に。私は、腰を振るう。
 「聖…」
 荒い息が少し漏れる。
 「…私を、殺して」
 そう告げた。今まで見た事の無い、優しく、泣いている顔で。
 「貴女の…ぬ、くもりを、感じていられる…今、此の時に」
 彼女は告げた。此れが、最後の契りなのだと。私の心に白い蛇が紛れ込む。二つに分か
れた舌をちろちろと出しながら、灰色の楽園に唯一の色彩を持った白い蛇が。牙を剥き、
息を吐き、私に告げる。もう、お終いだと。此の楽園は、今此の時に、瓦解する。自らの
重みに耐えかねて、お前と共に舞い落ちる灰色の桜の花弁へと沈む。お前と共に深い真っ
黒な海へと沈む。お前と共に陰翳だけを残した枯れ葉に沈む。お前と共に白より他に色の
無い鮮やかな雪の中へと埋もれる。そして、一人きりで、お前は死ぬのだと嘲笑った。温も
りなど何も知らぬまま、只一人きりで此の灰色に沈んで、腐るのだと哄笑し続けた。
 違う。
 其れは違う。
 心が叫ぶ。楽園は終わるだろう。架空庭園は崩れてしまうだろう。其れでも、私
には、彼女が、彼女が一緒に。
 ベッドの横に備えられたスタンドの下で眠っていたロザリオに手を伸ばしていた。お姉
さまから頂いたあのロザリオが。貴女の顔が好き。だから側にいなさいと言われて貰った
安っぽい絆が。私は、其の鎖を彼女の首にかけ、輪を作る。白い首筋に巻きつけて、ゆっ
くりと締め付けた。きりきりと軋みが腕に伝わる。目の前で、大きく口を開け、息を逃す
まいと喘ぐ姿。私の首を捕らえた指に力が籠もり、爪が食い込む。ぷちりと皮を裂く程に
強く、重く。瞳を閉じ、かくかくと喉を震わせた。止め処なく、だらしなく唾液が口から
溢れ、泡を立てながら頬を汚していく。全ては暗がりに汚れた景色。全ては陰翳だけを残
した景色。全ては、夢の中のよう。彼女の目尻から、そっと縦に流れた涙さえも。
 耳の奥で、蛇が笑った。
 お前は、一人で死ぬのだ、と。

 不意に力が途切れた。
 詰った息が一気に喉を駆け上がり、激しい咳となって舌を痺れさせる。首筋に感じるの
は冷たい金属の感触。未だ残り香がうっすらと残っている様で。ぽつりぽつりと剥き出し
のお腹に温い雫が落ちた。何時かに感じた、雫が一つ二つと落ちてくる。掠れる視界を凝
らすと其処に、俯いて腕をだらしなく垂らしたままの彼女の姿。前髪の隙間に僅かに覗く
瞳の色は、水で塗れて良く見えない。
 「…っだよ」
 呻く声。ぎりっとシーツに指先が食い込んでいた。
 「私には…無理だ…栞を、殺すなんて…」
 涙で詰って、一つ一つの言葉の合間に空白が紛れる。其の距離が、私と彼女を別つ距離
にも思えた。泣きじゃくりながら、彼女は縋りつく。覆い被さり、胸を歪ませて、長い間
分かれていた母の胸に縋りつく幼児の様に。
 「無理だ…私には無理なんだ…!」
 駄々を捏ねたまま、私の身体を抱き締めて彼女は泣き叫ぶ。徐々に私の首からは力が抜
けていき、其れと一緒に、感情までも抜け落ちた。空白。真白い雪の様な。冷め切った心。
情欲でほだされた心は、もう何処かへ行ってしまった。
 「聖…」
 心中など、甘い夢だったのだろうか。一時の、風の前に散っていく塵の様な。言葉だけ
に酔った、子供の戯れだったのだろうか。だが、此処で還った所で何になる。全てを捨て
た気になっていたのに、また手にしろというのだろうか。
 「栞…お願い」
 涙を噛み殺して、彼女は私の瞳を見つめた。鳶色。あの鳶色。
 「私を…殺して」
 かちゃりと首から鎖が引き抜かれて、彼女の首へと食い込んだままの指の中に滑り落ち
た。軽い重みが、今は疎ましい。其れを強く握らせると、彼女は一つ一つ精確に口にした。
 「お願い…私を、殺して」
 自らの手で鎖を首に掛け、輪の中へと自分を締めさせた。横たえたままの手を首へと運
び、其の手に鎖を握らせて。このまま、あと数センチ横に引っ張れば、彼女の首を締め上
げる其の位置に。
 「…お願い」
 私は、只機械的に、手を引っ張った。きりきりとした震えが指先を苛む。後一息で、千
切れてしまうそうな程に柔い金属の糸。此れで切れてしまえば、もう何もなくなるだろう。
心の何処で自分が笑っていた。彼女の命を断つ前に、此の糸は切れてしまうだろう。そう
すれば、また元通りの日常が待っているのだと。あの甘い生活に浸り、逃げ通せるだろう
と。現実は何処までも追い縋る。其れでも、逃げ続ければ良い。所詮は、其処にしか行き
つけないのだから。どす黒い心が腕を支配する。ぎりぎりと尚も力を込めて、鎖で締め上
げた。指先に血が通わない。黄白色に染まっている。滑って、ざりざりと抉りながらも斬
りつける鎖。もう持つまい。
 「…おり」
 只、諾々と、苦しみさえも押し殺して、彼女は私の名を呼んだ。
 「あい…してる」
 満足そうに、心底満足そうにそう笑い、彼女の鳶色から光が抜けた。かくりとマリオネ
ットの糸が切れた様に、自動人形の電池が切れてしまった様に、だらりと腕がシーツの上
に垂れ下がり、首が傾げた。そろりそろりと力を抜くと、どさりと彼女の身体が私の上へ
と圧し掛かる。重い。今まで感じてきたものとはまるで違う重み。力が抜けて、只の肉の
塊になっただけの。彼女は、死んだ。鎖が千切れる、其の前に。
 「聖…?」
 彼女の肩を抱き、激しく揺さぶる。重みが骨に荷重をかけて、支えきれない。
 「嘘…でしょ? 聖、ねぇ聖!?」
 お願い、返事をして。そして、何時もの様に笑って。泣き叫びながら私に縋って。私だ
けを求めて。お願いだから、目を、覚まして。悪い冗談だと言って。そして、私を怒らせ
て。其の後に、さっきみたいにじゃれあいながら、私を犯して。お願いだから、お願いだ
から…!
 「せぇぇぇぇぇい!」
 其れでも彼女は目覚めなかった。
 「はは…あはははははは」
 喉から渇いた笑いが滲み出る。
 「あははは…あは、あはははははははははは…」
 何もかもが滑り落ちた。
 「あはははははは…あはは、あははははははははははは…」
 ぼろぼろと涙だけが自動的に零れ落ちる。
 「あははははははは…あは、あひぐっ」
 彼女は、もう死んでしまったのだ。
 嗚咽。叫び。何一つ言葉で表す事など出来ない。拭う事も無く、只涙だけを溢れさせて、
私は、笑い続けた。もう其れは、笑いなどではなく、只の喘ぎ。獣が上げる咆哮にも近く。
 「聖…」
 彼女の骸をそっと、横に倒す。唇を噛み締めたまま、鬱血した顔。首筋に青黒い輪を描
いて。其の肌には未だ温もりが抜けては居ない。其れでも徐々に滑り落ちていくのが分か
る。彼女の頬をなで、見開いたままの瞳へと口づけをした。涙の味が口に広がる。彼女の
物なのか、自分の物なのかは知れない。濡れた瞳、あの私を見つめ続けた鳶色が虚ろに澱
む。其の瞳はじいっと自分を見つめているようで。死ねなかった私を、殺した私を責め立
てる。早く、死ねと。私を一人のままにしないでと。今にも唇が震えて、そう語りかけて
きそうだった。死ねと。死ねと。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
 「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 あの日に叩き潰した蝉の死骸にした様に。私は手にしたロザリオで彼女の右目を潰した。
何度も何度も叩きつけ、硝子が砕け、黄色い膿の様な水と赤い血が流れ出る。手を汚し、
彼女の頬を汚し、シーツを染める。其れでも私は手を緩めずに、何度も何度も叩きつけた。
骨の砕ける音がする。目の周りの骨が砕ける、其の音が。其処で漸く私は手を止めた。真
赤に染まった彼女の顔。びくびくと唇が震えているようにも見えて。そして、シーツに隠
れていた瞳が私を見据えていた。泣いている様に。私を、一人にしないでと。
 「そうね…聖」
 私は、顔を持ち上げて、目蓋を抉じ開けた。白く丸い瞳、其の真ん中に青みがかった縁
を持つ鳶色の虹彩。一人では死なせない。私と一緒に、死にましょう。私は、洗面台から
一本の髭剃りを持ってきた。瞳の横に走る筋肉を丁寧にぷちりぷちりと一本ずつ切り離す。
じっとりと血が涙を流す様に零れ落ち、刃を滑らせる。全てを斬り終えて、そっと持ち上
げると一本の臍の緒の様な、真赤な紐が彼女の眼窟と瞳を繋いでいる。其れをまた切り離
す。刃が滑って良く切れない。何度も何度も往復させながら、濡れた眼球を握り締めなが
ら。最後の一本が力無くぷちりと切ると、筋が彼女の鼻梁へと落ちて、赤い線を刻んだ。
 手の中には血に染まった眼球。鳶色の、愛しい、瞳が。そっと口に含んで、汚れを拭う。
鉄錆の味が口中に広がった。もったりと粘度の高い液体が舌に、喉にへばりつく。其れで
も止めずに、私は血を拭った。口をすぼめ、吸い上げて、吐き出し、また吸って。数回繰
り返した後には、真白い真珠の光沢を持った珠が手に収まっていた。其れを、そっとスタ
ンドの元に置く。大丈夫よ、貴女だけに痛い思いはさせないから。
 私は、手にした髭剃りの血を浴衣で拭うと、真っ直ぐに自分の左目へと突き立てた。
ぐちゅりと音がして、びりびりとした痛みの奔流で目の前が真赤に染まる。びくりびくり
と背筋が痙攣し始めた。其れでも手は緩めない。何度も何度も突き立てて、私の左に眠っ
た眼球をぐずぐずに砕き、抉り取る。ぼとりと形も失った半円の塊が抜け落ちた。虚ろに
空いた眼孔。視界が未だ赤く染まっている。天井を仰ぎ、手探りで彼女の眼球を探し当て
る。こつりと硬い感触、滑る様な触覚が手に伝わる。そっと持ち上げて、彼女の瞳を自分
の穴へと押し込めた。傷がすれる痛みが鈍く伝わった。血で溢れ、今にも飛び出してきそ
う。其れでも尚強く、私は眼球を押し込めて、手近にあったティッシュを折り、自分の片
側の目を覆った。何かで抑えないと。例えば、ガーゼの様なもので。
 左目を押さえながら、両の目を失った彼女の骸へと向き直す。そっと、血で汚れていた
頬を、首を、胸を舌で拭う。口中が麻痺して、只もったりとした粘液で満たされるだけし
か感じない。一頻り、彼女の身体を拭うと、舌の後に沿って彼女の白い躯の上に筆で描い
た様な掠れた模様が刻まれていた。私は、彼女の太股に、そっと血塗れのままの指を走ら
せて、文字を書いた。
 『聖 栞 ふたり』と。
 振り向いて、窓越しに外を見る。
 外には雪が降っていた。真赤に爛れた雪が。
 此の雪は、もう秋の終わりを告げていた。
 そして、其の時、神が死んだ。


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