+灰被りの憂鬱+
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  昔、ある所に高い高い塔のあるお城に住んでいるお姫様が居ました。
  優しい王様やお妃様、素敵な家来たちに囲まれて過ごしていました。
  何不自由無い幸せで、退屈な毎日。
  そんな中で、お姫様はふと思いました。
  「人生って一体何なのかしら?」
  幸せである事にすっかり飽きてしまったお姫様は、ある日『実験』をする事にしたのです。


 赦される事の少ないものは、愛も少ない。
 毎朝の祈りの中で、由乃は不意に其の言葉を思い出した。本当に不意に、思い出した。
 マリア像の前で合わせた手を解すと、教室へと歩き始める。視線は前を向いているのだ
けれども、心は何処も見ていない。虚ろな視線、移ろう思考、たゆたう何もかもが朝特有
の切れる様な冷気に紛れていってしまう。
 例え、隣に誰が居ようとも、全ては深い霧の中。
 自分が不機嫌であるとでも思っているのか、隣では親愛なる従姉、支倉令が何も話しか
ける訳でもなく、只黙って足を進めている。伸びた背筋、定められた視線、迷う事無い何
もかも。
 赦される事の少ないものは愛が少ないと言うならば、罪深き子羊は其の愛も深いと言う
のだろうか。六月の花嫁以外は、幸せになれないのと同じ理屈ではないのか。
 ざりざりと足の裏に伝わる石の欠片を踏む感触、手編みの手袋の中でじっとりと手の平
を濡らす汗、耳朶を切る早朝の冷気は其の軽さに反比例して、硬度を増していく。荒く吐
く白い息は、淡く。主の偉大で深遠なるお考えの前に楯突く哀れな穢れた子羊のように。
 残念ながら、自分は余り信心深くは無い。
 そんな考えすらも鼻で笑うほどに。
 昇降口までは、未だ遠く。
 永遠に感じるほどに、長く。
 沈黙の重みで心が悲鳴を上げるほどに、長く遠く続いていた。
 横を窺うと、令は奥歯に何か詰っているかのような表情を浮かべて、其れでも尚前を向
いていた。此の沈黙を打ち破る為の言葉が、多分気道に引っかかったまま、呑み込む事も
吐き出す事も出来ないのだろう。
 大好きで、大切な、愛しき姫君のご機嫌を損なわせる事無い言葉を。
 其の態度も、微弱に泳ぐ瞳の色も、先程から宙を掻いてはコートのポケットに収まる手
も、尚も緩まない歩みも、何もかもが煩わしい。不愉快だった。
 由乃の心に赤黒い芋虫がぎちぎちと食い荒らしながら、這い回る。蛹になって飛び立つ
時には、どんな色の翅を羽ばたかせる気なのか。そして、何を求めて空を飛び回ると言う
のか。鱗粉にはどんな毒を含ませて。
 コートの中で眠ったままでいる由乃の手にぎちりと力が籠もる。立てられた爪は分厚い
毛糸を刺すだけで、下に眠る血が薄れた青く、白く、黄色い肉へと突き刺さる事も無い。
 (…何も、知らないとでも思っているのかしら)
 多分、思っているのだろう。
 だからこそ、何の罪悪感も滲ませないままに、二人並んでいられる。
 幸せな黄薔薇と呼ばれる、幸福を演じたままにいられる。
 下唇から血がうっすらと流れ、噛みつけた歯をべっとりと撫で付ける。乾いた唇が裂け
て、皺に沿って傷が広がっていく。きっと鏡を見たら、傷口だけが爪を立てられた様
に赤く彩られているに違いない。
 「じゃあ、由乃。私は…」
 最後の言葉は聞こえない。聞きたくない。掠れ飛ぶ、声。
 「うん…じゃあ、ね」
 出来るだけ優しく、由乃は笑う。笑いかけられた方が、また安心して貪れる様に。日常
を、幸福を、味わえる様に。
 軽く手を振って、二人は別れた。


 学校のトイレには水垢と排泄物とが入り混じった臭気が凍り付いていた。
 気のつけば、由乃は其処に居た。別に用を足したかった訳でも無い。月経でも無い。何
の為に来たのかは、本人も理解していた訳じゃない。只、足が向いただけ。風が吹いて、
舞い散る花弁が何処に辿り着くのか、誰も知らないのと同じ。
 少し目脂が鼻梁の近くに貼り付いている気がした。手袋を脱ぎ捨て、剥き出しになった
指先でこそぎ取る。ばらばらと剥げ落ちて、指の腹にへばりついた琥珀色の塊を跳ね除け
る。不意に開けた視界の先には、一枚の鏡。金具が錆付いて黒ずんだ茶色を吹いた、古ぼ
けた四角い銀鏡が在った。
 鏡に映る自分は、頬が少し白く、其れでも何時もと同じ顔。
 何も変わらない。昨日と同じ、一昨日も、一昨昨日も、変わる事の無い、見慣れた顔。
 只、今朝と違うのは唇から流れる粘ついた赤。
 そっと、其の場所へと指先を持っていった。がさがさと逆向けた皮膚に囲まれた傷口は
厭に熱い。触れても、何の痛みも無い。すこし痒い程度。
 指の腹についた血を、横に流す。唇の形をなぞるように、撫でていく。
 口紅でも引いた様な陰気な赤。
 微笑んでも、只醜く撓むだけで、ちっとも綺麗には見えなかった。
 溜息を吐き、そっと回ってみる。濃緑色のスカートがふわりと舞って、空気をかき混ぜ
ながら踊り、静かに足へと纏わりついた。
 スカートの裾を少し持ち上げて、ゆっくりと鏡の前の自分に礼を。
 ごきげんよう、お姫様。
 言葉は舌の上に乗ったまま、音にもならずに唾液に混じる。
 浮かんだ笑みは紙細工。薄っぺらい作り物。
 裾を持ったまま、何度も何度もくるくると由乃は回った。誰も居ないトイレの真ん中で
くるりくるりと踊り続けた。王子に魅入られなかった、哀れで意地汚いシンデレラの義姉
達の様に。華やかな舞踏会、相手は無く、只シャンデリアの軽々しい光だけが彼女を照ら
しつける。骨まで照らしつけて、身体中を巣食う浅黒い影を浮き出してしまう。
 灰被り姫に王女の座を奪われた、地を這いずり回る醜く浅ましい女が孕む影。
 金と名誉に目の眩む女たちが抱え込んだ憂鬱が浮き彫りになる。晒される。
 何度目かの舞の後、発条の切れた人形が止まる仕草で由乃は立ち止まった。
 指先から離れた布地がはさりと萎み、静かに波打つ。
 視界の先には未だ鏡。
 紅を引いた唇が薄笑う、自分の姿。
 「由乃…さん?」
 聞き慣れた声が呼び止めるのは自分の名前。首だけで振り返ると、其処には突然飼い主
に蹴られた猫と同じ顔の友人が、祐巳が居た。
 「ごきげんよう、祐巳さん」
 薄笑いが消えないまま、くるりと身体を回し、スカートの裾を持ち上げて、お辞儀をし
た。形式的で、形骸的で、何の意味も価値も無い挨拶。
 「ご、ごきげんよう」
 釣られて向こうも、いつもよりも深く頭を下げた。
 1、2、3。心の中で秒針が時を刻む。
 すっと二人とも同じタイミングで頭を上げた。お互いの視線が絡み合い、交差する。
 「ぷっ」
 堪え切れなくて、祐巳がついた笑いが由乃にも伝播する。二人はトイレの入口でくすく
すと楽しそうに、笑いあった。お腹を抱えて、さも仲が良さそうに。其れでも、片隅で造
り上げた笑いだと、誰かが言っている。紅く引かれた血のルージュは未だ消えず、口元に
隠された唇は、少しも楽しそうではない。冷え切った心。空気よりも硬く凍てついたまま。
 一頻り笑った後で友人は彼女に言った。
 「一体、どうしたの?」
 目尻には未だ笑いの残滓が涙の粒となって浮いている。少し恥ずかしそうに、気まずそ
うに、そう繕いながらスカートの裾を軽く叩く。
 「何となく、お姫様ごっこがしたかったのよ」
 「お姫様、ごっこ?」
 塔の上で、王子様に助けてもらえない、愚かで、憐れなお姫様ごっこを。
 小首を傾げたまま、祐巳は此方を不思議そうに見つめている。本人は小狸の様な顔だと
言うけれど、由乃には子犬に見えた。疑いを知らない、ミルクをくれるとばかり信じ切っ
て尻尾を振る、可愛い子犬。
 「ねぇ、祐巳さん」
 足元に捨てたままになっていた鞄を取り上げながら、由乃は鏡の前でタイと髪型を整え
る友人に話しかけた。
 「何?」
 「祥子さまの事、好き?」
 コートの中のハンカチでそっと気取られない様に口元の血を拭う。傷口が疼き、痒みが
徐々に滲んできている。歯で噛みつけると、熱を持った腫れがぷつりと瘡蓋が裂けた。
 「へ?」
 リボンの結びをきつく縛り直しながら、彼女は此方へと振り返った。無防備で、力の抜
けた顔。無垢で、白過ぎる表情が、今は疎ましい。
 「だから、祥子さまの事好き?」
 「え…うん」
 恥ずかしそうに、少し嬉しそうに、頬を掻く。
 「何よりもかによりも?」
 「ど、どういう意味?」
 「そのままよ。何よりも祥子さまが好き?」
 何を意図しての質疑なのか、皆目見当もつかない。そんな表情。本当にころころと良く
変わるものだと、由乃は少し可笑しくなった。どう答えて良いのか迷い続ける友人へ、そ
っと助け舟を出す事にした。
 「祥子さまの側にいるのは好き?」
 質問がより答え易くなった事に、戸惑いしか覚えない。彼女は、由乃は何を思い、何を
考え、何処へ導こうとしているのか。其れでも、無言で返す程に彼女の神経は太くは出来
ていない。
 「うん…好き、だけど」
 「じゃあ、祥子さまを見つめているのは好き?」
 「うん…」
 「世界中の何よりも?」
 「そんな事…」
 分からない。世界を語る程、彼女は世界を知らない。語る言葉を持たない。答えに窮す
る祐巳を鏡越しに見ながら、由乃は自分の手を洗面台で洗う。別に何処も汚れてなど居な
いのに、指先にこびり付いた何かをこそぎ落とす様に、懸命に流れる冷水を擦りつけてい
た。水が流れ落ちる音だけが、朝の冷気に紛れていく。
 「私は…令ちゃんが好き」
 世界中の何よりもかによりも。自分は彼女が好き。
 「私から令ちゃんを奪おうとする何もかもを、赦さない」
 

  家来に命じて、毛の色も大きさも同じ猫を集めさせました。
  其の猫を、麻の袋に詰めて、塔の一番高いところにある窓から下へと落としました。
  お姫様は、自由落下の法則の中に生命の意義を見出そうとしたのです。
  一匹、また一匹と落としては、じたばたともがきながら落ちていく袋詰めの猫を、
  窓にもたれながら、ぼうっと眺めていました。
  丁度、12匹目を落とし終えた後に、お姫様は呟きました。
  「やっぱり、人生って分からないわ」
  落とせば落とすほど、お姫様はますます分からなくなってしまったのです。


 日記帳に出だしの言葉も書けないまま、令はそっとページを閉じた。
 日付だけを記されたままで、眠りについた過去の積もった紙束。過去を記す事もないま
まに、宙で固まってしまったペンのグリップに指先から滲んだとは思えないほどの汗が絡
みつく。
 窓の外には蘇芳。秋の夜が、夕暮れの色を其の身体に飲み込んでしまっていた。
 もう蜩が鳴く声も聴こえない。蝉の泣く声も聴こえない。只、自分を置き去りに、世界
が深い眠りについた静かな顫音だけが虚しく耳に響き渡る。しっとりと心を締め上げる美
しく、儚い、悪魔の旋律が。
 目蓋を閉じると、広がっていく光の錯綜。シンデレラの舞台を彩る色取り取りの宝石の
渦。其の隙間に眠る深い黒。誰もが海に囚われて、足元の乾涸びた貝殻に気のつかないよ
うに、目を背け、口には語らず、心の奥にそっと閉じ込めたままに、笑いながら踊る。そ
んな欺瞞が目蓋の闇の中で、静かに朽ちていく。
 卓上時計の囁き。足の先を舐める秋の寒気。視界を遮る横に流れた前髪。
 机の上にうつ伏せに、右の頬を押し付けるとぺっとりと吸い付く木の感触。
 静かな耳鳴り。静かな時間。静かな、何もかもが迫る夜の帳と共にさらさらと流れ込ん
でくる。理由の無い侘しさだけが、時計の針と共に心に刻まれていく。
 (由乃…どうしたんだろう?)
 最後に見たのは、朝に昇降口で別れた所。
 それから、彼女の担任の先生に呼び出されて、授業にも出ずに何処かへ行ってしまった
事を知った。友人である、福沢祐巳と共に。
 もう時計の針はあの時から十時間以上も先に進んでしまっている。沈黙の時だけが、降
りしきる雪の様に彼女と自分との間に降り積もっている。全てを白く染め上げて、長らく
使っていなかった辞書の上に浮いた埃の様に。
 目の前で開いたままになっていた日記帳を閉じる。虚しく思い過ごした時を空白だけで
書き記し、埋め尽くされたままに。
 (祥子は…大丈夫だろうか?)
 人が半狂乱と称される程に取り乱す様を生まれて初めて見た。月の様に青ざめた顔、忙
しなくかつかつと動き回っては止まる指先、瞳に浮いた焦燥と慟哭の色。未だ、由乃から
の連絡は無く、祐巳が何処に居るのかも分からない。
 (電話…した方が良いだろうか?)
 若しかしたら、祐巳の家に居るのかも知れない。ちょっと学校がサボりたくなって、彼
女を巻き添えにしただけ。其れならば、怒りは覚えるにしても、彼女自身には何も問題は
無い。そうであって欲しい。
 (由乃…今、何処に居るの?)
 叔母さんも自分の母親も今は気が気でない。居間でうろうろと訳も無くうろついては、
立ち止まり、また歩いている。其の姿が余りにも痛々しくて、見ていられなかった。本当
は、自分もそうしていたかったのかも知れない。其れでも…
 (其れでも、待つより他には無いのか…)
 探しにいこうにも、見当などまるでつかない。もう、探すべき場所は探しつくした。学
校を早退して、制服のまま駆けずり回った。
 足には甘痒い痛みとして、疲れがみっしりと圧し掛かっている。
 「令!」
 不意に、母親が呼ぶ声がした。ぱたぱたと廊下を叩くスリッパの音が此方へと近づいて
きている。何があったのだろうか。由乃が見つかったのか。
 「どうしたの、お母さん」
 期待に痺れた腕でドアを開けると、受話器を持ったままの母親が立ち尽くしていた。目
が赤く充血している。浮き出た細い血管が、彼女の焦燥を表している。
 「其の…電話よ」
 「誰から?」
 「祥子さんから…」
 「祥子から?」
 一体どうしたと言うのだろうか。祐巳の身に何か起きたのか、其れとも見つかったのだ
ろうか。困惑と失望と焦りが綯い交ぜに心で暴れ狂う。
 「もしもし…?」
 震える指で受け取った受話器から漏れ出たのは、より一層震え続ける彼女の声。
 『令…ああ、令…私、どうしたら』
 「何、何があったの?!」
 『祐巳が…祐巳が…』
 「祐巳ちゃんがどうしたの?!」
 恐らく目蓋から零れた涙で途切れ途切れになった言葉が告げる真実は、余りに残酷で、
余りに非現実的な響きが、幼い頃に見た悪夢の続きを見せられる様な物だった。
 『祐巳が…死んでしまったの』


 手紙と共に入っていた12枚の写真。
 一枚目は目隠しをされたまま、椅子に座っている祐巳の物だった。
 一枚、そして一枚と過ぎる内に其の様相は陰惨で醜悪な物へと変わっていく。
 令は、6枚目の写真を見る頃には、残りを投げ出してトイレへと駆け込んでいた。
 胃がひっくり返る様な衝動。湧き上がる吐気が胃酸特有のべとついた酸味を帯びて込み
上げてくる。ぎちぎちと軋む背中、電池の切れかけた自動人形の様にがたがたと震える手、
溢れ出る涙がぴりぴりと目に沁みた。吐いて、吐いて、胃の中が何もなくなる程に、血よ
り他に吐き出す物等なくなるまで。
 勢い良く流れ出す水の渦を眺めながら、剥き出しになった便座の縁に手をかけながら、
荒く息を吐いた。フラッシュバックし続ける、写真の残像が頭からこびり付いて離れない。
今迄に、あんな凄惨で陰惨で残虐な物など見た事も無い。作り物のホラー映画など、現実
に比べれば子供騙しも良い所だ。
 未だに心臓が早鐘を打ち続け、傷だらけになった胃がきしきしと痛む。
 落ち着かない。落ち着く事など出来ない。
 吐気は収まらない。其れでも、自分だけが辛い訳じゃない。祥子は、彼女はもっとどす
暗い悪意を体中に背負っているのだからと、令は震えの収まらない身体をのろのろと起こ
し、祥子の待つ部屋へと向かう事にした。
 扉を開けると、ベッドの足に凭れかかったまま、祥子は蹲っていた。
 床には先程、令がぶち撒けた写真が散らばり、彼女の足元には一通の手紙が開いたまま
で枯葉の様に落ちていた。
 「祥子…」
 近づき、肩に手を置くとびくりと動いた。腫れ物に触れた様に、雨に震え怯え続ける子
猫の背中を撫でた時の様に。
 「ああ…祐巳…祐巳…」
 呟く彼女の瞳は、何処も見てなどいない。焦点が定まらない。虚空を、抱えた膝の間に
広がる暗がりの全てに眼を奪われたかのようで。
 そっと、祥子の頭を自分の胸に抱え込んだ。
 「祥子…しっかりして」
 自分は何と無責任な事を言っているのだろうか。抱きかかえる自分の手が偽善に汚れて
いる気がした。
 「ああ…祐巳」
 もう、彼女は意味のある言葉など何も持っていない。只、偽物の姉妹の契りで結ばれた、
心を通わせた一人の少女の名前だけを彼方に呼び続けるだけ。
 (誰が…こんな)
 さらさらと流れる黒髪に指を差し入れながら、令は怒りと悲しみに満ちていた。
 一体、誰がこんな事をしたというのだろうか。
 一体、何の為に。
 不意に眼を落とし、足元に転がった手紙を拾い上げた。
 其処には、見慣れた文字で綴られた短い文章。
 『親愛なるシンデレラ。
  鐘が十二時を打つ前に、ガラスの靴は壊れてしまいました。
  王子様が、あなたを見つけ出す、その前に』
 見覚えがある。此の文字の書き方は、幾度と無く見てきた、記憶の中で最も覚えている
文字。字と字の間も、はね方も、綴り方も何もかも。知っている。私は知っている。
 「よ…しの?」
 

 日が沈んでから、ぽつりぽつりと降り始めた雨が、今は其の勢いを増して地面を濡らし
ている。全てを叩き壊そうとしている。何もかもを水の闇で埋め尽くしてしまおうと、懸
命に其の身を揺らせ続けている。
 あれも…こんな雨の日だった。
 窓の枠に寄りかかりながら、由乃はぼんやりと闇に降る雨を眺めていた。
 どれ程前だったかも覚えていない。一つ、二つを指折って、三本目で数えるのを止めた。
其れ以上前。ずっと前の日の事。何時の事だかも覚えていられない程に、昔の事。
 こんな、雨の日だったと。
 薔薇の館にも見慣れた日の事。
 傘を差したまま、ぐずついた地面を踏みしめながら、歩いていた。どうしてか、直ぐに
は入る気がしなかったから、其の周りをふらふらと当ても無く。
 丁度、入口の反対側の壁。
 不意に人影を感じて、壁で身を隠す様にそっと覗き込んだ。
 最初、雨が作った灰色の帳で黒い塊にしか見えていなかった。其れでも、見慣れた短い
髪が濡れるままに雨に打たれているのに気付いて。もう一つの見慣れてきた長く艶やかな
黒い髪が濡れてゴムの様な光沢を帯びている事にも。
 薔薇の館の裏側、誰にも気付かれない秘密の花園で、若い恋人同士は其の身を堅く抱き
しめ合いながら、愛の口づけを交わしていた。
 見間違いだと、最初は思った。そう、思い込ませたかった。
 自分は何も見なかった。自分は何も知らないのだと。全ては此の陰気な雨が見せた幻で
しかないのだと、言い聞かせた。
 指先から抜け落ちた傘の柄を握り直し、由乃は其の場所をそっと離れた。
 一度ならば、きっと思い違いなのだと、そう思えた。
 其れでも、現実は何処までも自分を追いかけて、離す事は無く。
 其の後、幾度と無く幾度と無く、彼女たちの淡く切ない逢瀬を眺めた。
 其れは薔薇の館で交わされる言葉の端々から、古い温室で、学校の裏手で、誰も居なく
なった夕暮れに沈む教室で。幾度も交わされ、幾度も交わし続ける、愛の言葉を。
 目の当たりにする度に、自分の心が這い寄る暗がりに蝕まれていくのが分かる。蛹に植
付けられたコマユバチの卵が孵化するように。何匹もの小さな幼虫が柔らかく優しく心を
食い荒らしていく。痛みも無く、悲しみも無く、只死んでいく心。ぽっかりと空いた心の
隙間に生えてくるのは、孤独。決して、甘くも苦くも無い、取り残された事を嘆くでもな
い、只の孤独がじとりじとりと浮き出てくるのを感じた。
 別に、令が誰の事を好きになろうとしった事じゃない。
 自分と彼女はもっと別の物で、もっと深くて硬い絆で結ばれているのだと、信じていた。
信じようとしていた。
 あの時までは。
 別に、何があった訳じゃない。
 何時もの様に、彼女の家に行き、怠惰で時間を食潰すだけの時間を過ごしていただけ。
 其れでも、不意に鳴り響いた電話の電子的な呼び声が彼女から『大好きな令ちゃん』を
奪い去った。只、其れだけ。劇的な事など何もない。
 でも、受話器を取って、向こう側に居る誰かと話している其の横顔だけで、全てを悟っ
た気がした。
 彼女は、今まで見た事が無い程に、優しい顔をしていた。
 甘い安らぎが彼女を満たす、其れだけを現していた。
 時折聴こえる、電話の相手を呼ぶ声が、『祥子』という名前が自分を奈落へと突き落とし
た。二度とは這い上がる事の出来ない、海よりも深く、空よりも遠く、地獄と同じ色をし
た真っ黒い淵へと、引きずり込んでいった。
 令がどれだけ、祥子を愛しているかを。
 そして、自分がどれだけ令を愛しているかを。
 其の時、初めて気がついた。
 血のべとついた香りが湿気に紛れて、部屋に漂う。
 滑ついていた手の平も、今は凝固した返り血でべきべきと固まってしまっている。
 そっと、指先についた未だ乾き切っていない血で唇をなぞる。
 黒い、口紅。
 口元に広がる赤黒い花は、生臭い臭いがした。
 窓に映るのは、真赤な唇をした自分の顔。変わり映えの無い、浅ましい灰被り姫の義姉
の顔が、泣いていた。
 汚らしかった。
 突然、電子音がけたたましく自分を呼びつける。
 椅子から立ち上がらないまま、机の上に放り投げておいた子機を取る。多分、かけて来
るだろうと思ったから。だって、相手は
 「もしもし、島津ですが」
 『由乃?!』
 大好きな令ちゃんに決まっているから。


  お姫様は、今度は家来に命じて自分と同じ年恰好の娘を12人集めさせました。
  彼女たちに自分と同じ服を着せ、自分と同じ化粧をさせて塔の窓から突き落としました。
  一人、また一人と落としては、じたばたともがきながら落ちていく娘を、
  窓にもたれながら、ぼうっと眺めていました。
  丁度、12人目を落とし終えた後に、お姫様は呟きました。
  「やっぱり、人生って分からないわ」


 今手元に掻き集めた十二枚の写真は、多分ポラロイドで撮られたものだと思う。
 独特の色合いと光の陰翳の乏しさが其れを示している。
 何度見ても、気分が悪い。其れ以上に、心の開いた穴が疼き始める。
 一枚目は普通の祐巳の写真。目隠しをされて、椅子に縛られた、普通の写真。
 其れから枚数が増えるに従って、其の肌が露になっていく。
 タイが解かれて、制服を引き裂かれて、下着も剥ぎ取られて。
 そして、今度は彼女の中身が露になっていく。
 縦に裂かれた彼女の白いお腹、剥き出しになった腸や胃、子宮や肝臓。ずるずると引き
ずり出されて、青黒い臓物がびくりびくりと動いている様子が容易に想像出来る程に。撒
き散らされた血液がべっとりと制服をより黒く染め上げる。全てを外へと引きずり出され
て、残っているのは背骨の白。赤く黒い線を幾重にも重ね上げた色が浮いた、骨の色。ま
るで、魚の開きの様だと今は思う。吐気は無い。虚しさと悲しみより他に、何も思う事は
無く。そして、最後の一枚。目隠しを外された、彼女の顔は、恐怖と苦痛に引き攣ってい
た。多分、生きながらに『解体』されたのだと思う。
 令は先程、手紙を拾い上げると弾けた様に外へと飛び出して行った。
 去り際に呟いた一言。
 確かに、令は名前を呟いた。
 親愛なる従妹の名前を、小さく呟いていたと思う。
 もう、今は何も聴こえない。耳鳴りの他には何も耳の中に入ってこない。
 薄暗がりが部屋中を覆う。多分、此の耳鳴りは暗がりが歌う声。私の中から、部屋の中
から、世界全体が歌う、祐巳への鎮魂歌。
 彼女が、何をしたと言うのだろうか。
 私が、何をしたと言うのだろうか。
 あの娘が、一体何をしたと言うのだろうか。
 こんなにも惨い仕打ちを受けなければならない程に、私達は罪深いのだろうか。
 ―赦さるる事の少なき者は、其の愛する事もまた少なし。
 授業で聞いた、主の言葉。
 罪深きマグダラのマリアへ向けて、告げた言葉だっただろうか。
 記憶は曖昧で、鮮明なのに霧がかかってしまっていて、何も思い出そうとはしない。記
憶にくっついた思い出が、今は只悲しい。
 「祥子さん…」
 お母様が、部屋の中へと静かに入ってきた。
 あの人に、此の写真を見せる訳にはいかない。彼女に、こんな物を見せる訳にはいかな
い。私は、写真の束を気取られない様に、ベッドの下へと押しやる。
 「どうかなさいましたか、お母様」
 「いえ、お電話が入っているわよ」
 電話。誰からだろうか。
 令…だと良いのだけれども。
 今、頼るべきはもう彼女より他に無い。此処には居ない、彼女より他に頼る術は無い。
 そう、と短く答えると、私は重い腰を上げた。


 目の前が暗い。何も見えない。
 自分は今何処で何をしているのだろうか。
 只、雨が屋根を打つ音だけしか聴こえない。後は、みちゃりみちゃりと粘ついた水音。
 「令ちゃ…ん」
 由乃?
 由乃の声が聴こえる。
 「令ちゃんは…誰にも渡さない…」
 太股を生暖かい湿った肉が撫で上げる感触。ぞわぞわと背中に鳥肌が浮く。気持ち悪
い。虫が這い回っている様だった。
 撫で回す肉はじりじりと股の間、秘すべき場所へと近づいてきている。
 「由乃? 由乃、何処に居るの?」
 反応は無く、只下着越しに陰唇を撫で上げる感触だけが激しく粘つく。漸く、其れが
舌なのだと気付いた。生温い鼻息を感じる。
 「令ちゃ…ん…令ちゃん…」
 「由乃? 由乃なの?」
 今、私の其処を舐め上げているのは、貴方なのか?
 「令ちゃんは…誰にも…渡さない」
 舌先が離れる。濡れた布が冷気を吸って、隙間風が忍び寄るような寒気を感じた。
 椅子に座らされたままの私の上に、重く誰かが圧し掛かる。骨の感触がごつごつとお
腹に食い込む。痛い。
 「令ちゃん…」
 其の声は、愛しい従妹の声は、直ぐ耳元で聴こえる程に近く、息遣いさえも聴こえる
程の距離に感じた。
 顎を掴まれて、くいっと上に上げられた。
 此の指先。慣れ親しんだ、彼女の、島津由乃の指だった。
 不意に唇に、滑付く感触が。柔らかく、其れで居て濃厚に血の臭いを感じる。
 「やめ…!」
 自由になっている首を振って、其処から逃れた。唇に唾液以外の何か別の粘液の感触
が残っている。舌で舐めると、何故か鉄錆の味がした。
 「令…ちゃん?」
 がきりとまた顔を掴まれた。今度は逃れられない様に。今度は拒絶されない様に。
 「いや…なの? 祥子さまとは良くて…私とのキスは…厭なの?」
 ずるりと指が滑り落ち、肩口で止まった。胸の上にこつりと何か丸い物が乗っかる。
 さらさらとした髪が頬をちくちくと刺して、少し痒い。
 「そう…なの? 私じゃ…駄目なの? こんなに…こんなに」
 私は令ちゃんの事が好きなのに。
 そう象ったのだろうか。
 言葉は、嗚咽と、雨の音に紛れてしまって、良くは聞こえなかった。


 電話で呼び出された通りの場所へと、私は来ていた。
 「ごきげんよう、祥子さま」
 窓の外には、降りしきる雨が世界を暗闇へと閉じ込めてしまっている。
 夜に学校に来るのは初めて、夜に眠る薔薇の館に来たのも此れが初めて。
 一縷の光も無い、完全な暗闇に沁みるのは私を呼び出した相手と微かな誰かの息遣いだ
け。後は、耳鳴りと雨が世界を穿つ音。
 「…由乃ちゃん。此れは、どういう事なの?」
 自分の声に少しの力も思いも籠もっていないのが分かる。虚脱感。心が壊れてしまった。
何も感じない、何も聴こえない、何も見えない。只、死なずに居るだけの、抜け殻になっ
てしまっている。
 「祥子さまは、少し欲張り過ぎ」
 聴こえるのは同じ力の無い声。心の無い声。何もかもが壊れてしまった人だけが告げる
事が出来る、喪失の声。
 「心を赦す妹を作って、其の上で愛する人まで求めるなんて」
 湿気に混じって、何処かで嗅いだ覚えのある臭いが鼻をくすぐる。此れは、一体何なの
だろうか。一体、何処で自分は此の匂いを嗅いだのだろうか。頭が働かない。雨の音と耳
鳴りが脳髄を食い破る。
 「別に…其れは良いの。私も、そうだから」
 でもね。
 「私から、令ちゃんを盗らないで」
 光が。赤く黄色く、仄かな光が目の前で揺らめいた。
 そう。そうだった。此の臭いは、ガソリンの臭い。
 「うわああああああああああああああああああああああああ!」
 令の叫び声が暗がりに響き渡った。目の前で燃え盛る炎は、何時だかに見た炎と同じ色
をしていた。そう、あれは学園祭の後夜祭で見た、炎の柱と同じ色。
 「令!」
 私は、其の燃え盛る赤い舌へと手を伸ばそうとした。ぱきりと何かが火の粉となって此
方へと飛んでくる。身体が、動かない。自分はこんなに弱い人間だったのか。何もかもを
目の前で失ってしまうのを、指を咥えて眺めているしかない程に。
 くぐもった声が、尚も響く。
 「令…と、わた…は、ずっと…と、一緒に…」
 尚も激しく燃え盛る炎。其の中に浮かんだ白い腕。赤い唇。
 虚ろに泣き腫らす、由乃の瞳。
 両腕を縛り付けたままの令の首に絡ませて、泣きながら笑う彼女の顔が。
 「貴方…は、生き…よ。何も…を、失っ…まま、其処で…生き続け」
 もう、言葉が聞こえない。火が私と彼女を別ってしまう。
 「令!れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!」
 シンデレラはガラスの靴を失って、王子様に探しても貰えないまま、一生灰被りの名前
を背負ったまま、薄汚い家で、いつか迎えに来る王子様を夢見たまま、生き続ける。


 其の後の顛末は、短く記そうと思う。
 燃える薔薇の館から助け出された祥子は、うわ言の様に「王子様…王子様は…」と呟く
だけで、何も食べようともせずに、何もしようとはせずに、心を凍らせたまま、病院の白
い部屋に引き篭もった。
 祐巳の遺骸は、由乃達の物と一緒に、薔薇の館で発見された。
 彼女達の焼死体は、由乃の手首に嵌った手錠に繋がれていたと言う。




 お姫様は其の後も、一生幸せに暮らしましたとさ。

 (挿話参照:『ヒカリ』佐藤裕美)

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