春 夏 秋 冬
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―淫欲、之は、全ての贖罪の襯衣をつけたる肉體の侮蔑者にとって荊棘であり、曝柱である。
『神を殺した、其の咎の』
そう告げたきり、また虚ろに一つの瞳で桜を仰ぐ。何一つ言葉も無く、交錯する感情さ
えも存在しない、一切の静寂が志摩子と彼女の間に流れる。
「神はぼくたちのことを考えている。だが、ぼくたちのためを考えてはいない」
穏かに、薄暗い森の中で死んだ様に眠る湖の水面の様に穏かに、最初に言葉を紡ぎ、静
寂を殺したのは、やはり彼女だった。
「ぼくの細菌たちが動揺するとぼくは苦痛に襲われる。するとぼくは彼らの事を考える。
そして、神も自分が創造した世界によって、其の世界ゆえに苦しんでいる、そうぼくは自
分に言いきかせる。そして、神もこの世界ゆえに永遠に苦しまれるだろう」
どれ程に蝿の唸りが耳を塞ごうとも、如何程に漂う蜜と腐敗の香りが鼻を塞ごうとも、
澄み渡る琥珀色の飴細工の様な声だけは、志摩子の元へと流れ着き。そして、心を揺すぶ
り続け。
「…貴方は、考えた事は無いかしら。私達が愛して止まない神が、一つの命を、
一つの国を、一つの世界を代償にしても愛する神は、私達をどう思っているのか」
見返りを求めている訳でもないのだけれどね。最後の一言がしっとりと濡れた糸の様に
絡みつく。足元には一塊の蛆が、身体をくゆらせ、何時の間にか彼方へと歩き去っていた。
胸の中に蹲る思索の糸が縺れ合い、言葉にならず喉へと詰まる。息が苦しい。目が霞む。
頭が軋み、躯が震える。其れでも、心は元のまま、静寂に眠る。否、余りにも隙間無く込
み入り過ぎて、穏かに見えるだけ。増えた角が増え過ぎて円にしか見えないだけ。
何も告げられないまま、立ち竦む志摩子に、彼女は微笑み。
「其れでも、神は、其処にいる」
そう告げた。
『愛している』と云う言葉が、嫌いだ。
目の前に聳えた壁へと突き立てた二つの腕の檻で、僅かに濡れながら此方を窺う彼女の
瞳が自分を苛む。黒よりも尚黒く、磨き上げた鏡の様に、噎せ返る暑さに汗を滴らせた自
分の顔を映し出す虹彩。蝉の声。風は無く、只陽射が背中を嘗め回す。脇の下から腕へ、
そして手首へと生温い水滴が流れ、地面へと落ち、影で汚れた白い地面に染みをつける。
病的とも云える程、細く白い青磁器の様な腕が伸び、白絹の様に滑らかな彼女の指の腹
が、そっと頬を、長く伸びた髪に隠された耳を、汗と垢で薄汚れた耳の裏を、うなじを撫
で、肩に止まる。尚も瞳は濡れながら、静かな湖に石を投じた波紋を描き、蜃気楼の様に
揺らぐ。互いの体温で、互いに傷つけ合い、互いに疲れ果て、互いを求め。少なくとも、
私は、そう思う。お互いがお互いに、夏の瘴気に当てられて、少しずつ弱る身体を求め合
っているのだと。枝に止まり、羽を休めるか弱い鳥の様に。
『愛している』と云う言葉は、大嫌いだ。
腹の底で泡を立てて滞り、煮え立ち、喉元まで込み上げる此の感情は、そんな陳腐で甘
ったるい言葉などで穢したくない。使い捨ての流行歌が垂れ流したきりの安っぽい、作り
物じみた言葉で、彼女の心を穢したくない。
言葉は、必要無い。口に出した途端、元の形を失い、崩れて歪むだけならば、言葉など
何の必要があると言うのか。何も云う必要は無い。そんな物は、飢えた犬にでもくれてや
れば良い。餌箱で蛆が湧く程に、夏の腐敗に当てられて、そのまま。
蝉の叫びが止み、束の間の静寂が御堂の裏手に滞る。私と彼女、向かい合い、抱き合う
までには少し遠い、肩に置かれた白い指が厚い濃緑色の布に爪を立て、其れ以上引き寄せ
るでもなく、遠のくでもなく、僅かに互いの息遣いが聞こえる其の距離に。何かを呟きか
けて、前歯で噛み殺す唇の微かな震えが見て取れる其の距離に。尚も瞳は濡れて、細く閉
じられた目蓋の中へ、頭骨の穴の底に眠る。肩に置かれた手をそっと握り、下へと降ろす。
指先を絡ませて、縺れさせ、きつく握ると汗がじっとりと滲み、箔の様にしっとりと貼り
ついた。躯の境が喪うと錯覚させる。壁についた腕を曲げ、唇と唇の距離が縮まる。もう
彼女の顔が焦点がぶれて、モザイクに消える。見えるのは薄暗がりに震える薄紅色の唇だ
け。私は其の花弁に自らを重ねた。鼻から漏れた吐息が頬骨を擽る。産毛がそわりと逆立
つ感覚がくすぐったい。只、皮に厚く包まれた肉が重なり合う感触。柔らかく、其れ故に
堅く閉ざされた。そっと目蓋を閉じて、自分の体温が重ねた唇に遷る様に、どちらの物か
も判らない程に混ざり合ってしまう様に。深く根を張り、二度と離れぬ様に。
束の間止んでいた蝉時雨が、また響き渡る。煩わしい。何かを責め立てる様で、一層。
一夜限りの契りを、子をなす営みを望み、渇き、緩やかに死にゆく其の身体で声の限り
に泣き叫ぶ声は、私を苛む。陽射。湿った風。がさりがさりと啼く青い樹。其の全てが、
私を罵り、嘲笑うようで。忘れる様に、振り払う様に、私は重ねた唇を一度離し、飢えた
子供の様にまた貪る。口全体で彼女の唇を咥え込み、舌先で閉じた花弁を割り開く。抵抗
無く開かれた唇の合間、ざらりとした舌が解れない様に、私が求めるままに結ばれる。
「うん…」
下で絡み合う手に力が籠もる。息苦しそうに吐かれた鼻息、吸われた肌に混じる汗、薄
く閉じた瞳、蝉の声。どれ程時間そうしていただろうか。どれ程の間、舌を啄ばみ、啜り、
絡ませて。離れては、また重ね、唇がふやけてしまう程になるまでに、時の砂がどれ程落
ちて行っただろう。くちゃりと水音が二人より他に誰も無い此処に僅かに響く。何回目か
の口づけの後、彼女の顔が見えるだけ顔を離した。二人の舌先に架かる唾液の橋は濡れて
光る蜘蛛の巣の様に脆く細く、今にも切れてしまいそうで。切れぬ様に、二人と繋ぐ此の
糸が切れてしまわぬ様に、再び唇を軽く重ねる。撓んだ糸が顎に染み付いて、僅かな冷た
さで刺した。小鳥が粟を食む程に僅かに重ねた後、後ろに突いていた腕を彼女の繋がれて
いない腕へと降ろし、布越しにそっと握る。頬に、そのまま耳朶へと唇を滑らせ、耳殻の
周りを舌先でなぞる。産毛がさわさわと舌を拒む。其れでも執拗に、音を立てて、舐め上
げ、啜る。
「うぅん…」
握る指先の爪が手の甲を突き刺さる。みしりと音を立てる程、強くきつく。其れでも私
は、尚一層強く耳を嘗め回した。舌に走る少し塩味を帯びた肌の味。只、ざらざらとした
板にも似た其の味、耳にかかった髪の隙間から香る彼女の匂いは柑橘類特有の甘酸っぱい
色をしていた。柔らかな丸い骨を歯で軽く噛みながら、緩やかに曲がる形に沿って舌を走
らせ、渦を描く様に耳の淵へと舌先を滑り込ませる。小さな孔は、きつく拒む。其れでも、
緩めずに、吸い尽くす。
「や…もっと、優し…く」
しての一言も吐けぬ様に。留めようと腕を上げようにも、私に掴まれている為に軽く上
下するだけで抵抗も出来ぬまま、彼女は成すがままに耳を吸われている。其の姿が、私の
心を赤黒い粘ついた泥で穢す。愛おしい等と云う甘たるい感情とは程遠い、征服欲とも違
う、余りの美しさに天衣を盗んだ御伽噺の愚かな男にも似た、唸り。自らの口から零れた
水の滞りで汚れた仄赤く染まった耳から、そろそろと舌を降ろしてゆく。髪の隙間を縫う
様に、耳の裏へと滑らせて、そのまま細い首筋へと。軽く歯を立てると陶器の様な澄んだ
白い肌がこそげ落ち、其の下で撫で回す舌の上に落ちる錯覚。少しずつ彼女自身を削り取
り、自分の中へと埋めてしまえれば、若しかしたら此の情動は収まるのだろうか。何もか
もを棺に閉じ込めて、永遠に抱いて眠る虚妄も満たされるだろうか。『愛している』等と云
う様な浅はかでつまらない言葉で飾り立てる事の出来ない、此の感情は。首筋に先程より
も強く歯を立て、吸う。ずるりと水の音が未だ止まない蝉の声に紛れ、燃え尽きる。
「ひぅ…っ!」
軽い悲鳴。痛みとこそばゆさが滲ませた情欲の香が入り混じる声。
唇を離すと糸を引きながら、白い首筋に紅い傷痕。唾液で濡れた染みは隙間から零れた
夏の陽射に当てられて虫の背の様な光沢を帯び、其れが余計に艶かしく。皮膚の内側で切
れた細い血管が作る輪の縁を舌でなぞりながら、また其の横に傷痕を付けていく。彼女の
体に、確かに其処には自分が居たと云う証を。例え其れが、望みが見せる泡沫の幻であっ
たとしても。
五つの傷痕、十字に並ぶ赤い血の滞りが陽射に撫でられて、白い絹に浮く姿は嗜虐の喜
びよりも風切りされた鳩を籠に閉じ込めた感覚を夏の陰鬱で粘ついた暑さに入り混ぜる。
尚も響く蝉の声、躯が裂ける様な断末魔、例え仔を孕んだとして、其処に何の意味がある
のかと、どれ程の価値があるのかと、疑いもせず迷いもしないで只鳴き狂う。生まれ変わ
るならばいっそ、こんな無意味な稚戯にも近しい傷痕を彼女に残さなければ、只此処に立
つ事さえも危うい物では無い事を。
首筋につけた痕を眺めている内に時間だけが過ぎていた。
繋いでいた手が解かれる。するりと指の隙間から彼女が零れた。風が撫でる様に、細い
指先が私の頬を撫でる。互いの肌に貼りついた汗の膜が絡み合い、ぺっとりと其の境を喪
う。先程と、同じ仕草、同じ動きで頬を撫で、髪をそっと耳へとかけて、首筋に。前屈み
で彼女の躯に口づけを、自らのか細い魂を刻み付ける私の首を、優しく片手で抱き止める。
まるで、泣き叫ぶ赤子を抱く様に、私は彼女の胸へと身体を預けてしまっていた。頭に鼻
先を感じた。そっと髪の隙間に埋もれた皮膚に柔らかい唇の感触。荒かった吐息は何時の
間にか、涼しく穏かなものになっていた。あれ程に、刻み付けても直ぐに冷める。海を木
の枝で叩いても、僅かな波紋を残して、後は寄せる波の中へと。
「どうしたの?」
頭の中に直接響く様な声。心さえも見透かされ、嘲笑われているかの様な。
解かれて、宙に浮いたままの指先に腕を伝った汗の雫が滞る。ぱたりと地面へと落ちも
せず、痒みと共に滞る。どんなに望んでも、一つになれない軋みと共に滞る。追い求める
だけで、其処に何の見返りもない情動に価値などあるのかと、心が溢した嘆きと共に滞る。
輪郭だけを残して燃え尽きた澱みと共に滞る。
私を抱く其の腕に、指先にほんの僅か力が籠もる。彼女の胸へと埋もれる錯覚を覚える
程に。このまま彼女の中へと沈み込めたら、どれ程私は救われるのだろうか。疼く焦燥を
忘れる事が出来るだろうか。でも、私達は。
「栞…」
埋もれて、くぐもった私の声。直接彼女の心に語りかける様に。言葉などなくても、私
の想いが伝わる様にと。解かれた指先で腰を掴む。立っていられない。不安で、名も知れ
ない、見えもしない、容も無い不安で押しつぶされそうになる。夏の気怠い暑気と共に、
背中に圧し掛かり、腹を締め付け、頭を揺さぶり、心を潰す。するりするりと吐息が指の
隙間、滑り落ちる砂よりも早く、唇から落ちていく。
「…愛しているって言って」
何よりも、かによりも。心の中に棲む神よりも尚。自分を求めてくれているのだと。
幾ばかの沈黙は永劫にも近く。抑え付けていた筈の腕さえも今は私から離れ、其の指先
が優しく髪を撫で付けている。
「愛しているわ、聖」
凪よりも静かで、氷よりも透き通り、花よりも穏かに咲いた、声。
囁かれた言葉は蝉の叫びで其の余韻を侵されて、喧騒の沈黙が御堂の裏、私達の上へと
降り注ぐ。がさりと揺らぐ青い葉を茂らせた枝が風に撲られた声。じとりと肌の上を這う
雫のこそばゆい不快さ。静かに脈を打つ彼女の心音。鉄の塊が蠢いているような、私の心
音。目蓋が熱い。眼球が濡れ、視界がぶれる。
私は、其れでも、『愛している』と云う言葉が、大嫌いだ。
こんなに残酷にしか響かない、言葉なんか。
どんなに囁かれたとしても、捻くれた私の心は、決して信じない。彼女の心が、私の元
に永遠にあり続ける事を、絶対に信じない。そんな想いにしかさせない言葉なんか。
大嫌いだ。
尚も髪を梳き続ける腕を払い除け、乱暴に唇へと自らを重ねる。ふやけていた筈の薄紅
の薄い肉はもう渇きを覚えていた。少しだけ驚いた様に開いた瞳は、舌先が自分の中へと
埋もれる時にはもう薄く閉ざされ。睫毛の造る陰翳が、其の光を遮る。頬に生温い雫が伝
った。そのまま、互いに歯車の様に噛み合い、絡み合う唇の隙間へと滑り込む。仄かに滲
みる塩の味。唾液に混じり、薄れ、消えていく、儚い、味。其れでも溢れ、執拗に滲み込
んでは薄れ、また溢れていく。忘れる様に、初めから其処になかったのだと、自分を騙せ
る位に。私は激しく、彼女の舌を舐り、自らを埋めた。
不意に、風が私の舌を凪いだ。湿った、夏の風。
閉じていた筈の、彼女の瞳は睫毛の檻から放たれて、硝子球の様に濡れた光沢を帯びて、
くるりと私を映していた。汚らしく、みすぼらしい、私の顔を。そっと、目の輪郭を沿う
ように目尻に向かい、白い指が撫でた。
「聖…泣いているの?」
其の一言が、彼女の呟く其の一言が、私の心を少しだけ壊してしまい。
縋りつく様に、身体を埋めてそのまま帰らぬ様に、彼女の胸へと倒れこみ。
蝉の叫びよりも、尚高らかに。夏の風よりも、尚激しく。全ての喧騒を、殺すほど。
私は、母を失った赤子の様に、泣いた。
視界の先にはステンドグラス。
翡翠、群青、琥珀に緋色。陽射を受けて悲鳴を上げて、歪んだ欠片を私達の上へと垂れ
流す。伸ばした指先が、斑に染まる。眼を閉じれば、目蓋の裏に極彩色の残り香が虚ろに
揺らめき、輪郭を失い、混沌に踊る。蝉の声も今は遠く、聴こえるのは自らの高鳴ったま
ま戻らない鼓動の声と、荒い吐息。彼女の指が縋る様に、小兎を罠に掛ける黒々とした刃
の様に、私を掴み、握り、抱きとめ、這い回る。湿った舌先が口の中で白魚の様に動き回
り、歯茎を、唇を、私の舌を撫で続け。
そっと眼を開くと、尚も色彩の欠けない色硝子の唸りを遮って、虹彩に青い縁を帯びた
瞳が波紋を打ちながら濡れていた。僅かな空白、其れが今はとても遠く。御堂の堅い木椅
子の上に、彼女のされるまま横たわる躯は、背中が真っ直ぐに伸びる木に押され、みしり
と撓む。頭の上に投げ出された両腕は彼女の一つの手の中に。其の姿は、まるで受難を受
ける殉教者の様で、ゴルゴダに居る様な、そんな。私を貫くのは、曲がった釘でも、槍で
もなく、彼女の澄んだ瞳だけ。何も云わず、何も問わず、只見つめる、鳶色だけ。
「栞…」
唾液が舌に絡まって、只私を呼ぶだけなのに、とても息苦しそうだった。彼女の堅い頬
を撫でる事も、髪を梳く事も、今は出来ない。只、降りかかる物だけを受け入れ、飲下す
より他に、何も。また一度、軽く唇を重ね、そのまま顎へと滑り落ち、首を通る。歯の先
で象牙色のリボンを解く。するりと肩を締め付けていた軽い束縛が放たれる感覚、其の一
つ一つが私から思考を奪っていく。何も考えられない。只、彼女が其処に、私が此処に。
其れ以上は何も、要らなくなっていく。焦げ付いた心の滲みも今は要らない。何も、考え
たくないのかもしれない。
吐息の起伏で揺れる胸元からするりとリボンが抜けていく。口に咥えられた布は、飢え
た野犬が咬む肉の様、其の瞳は乾涸びた河が見せる土の色。空白に犇めいたまま、彼女に
食い千切られ、死に果てる自分の姿は、だだ甘く、何よりも幸せに思えた。解かれたリボ
ンがふさりと私の顔の上にかかる。
「聖?」
声は掠れ、喉は震え。一切の視界が黒く染まる。頭の後ろに布が固く結ばれる感触。彼
女は、私の眼を隠し、光を殺した。ステンドグラスに刻まれた聖者たちも、御堂の奥で静
かに微笑む聖母の顔も、見えぬように。いつもの、事。交わる其の時に、彼女は何時だっ
て私の視界を奪ってしまう。感覚が一つ死んだだけなのに、何もかもを失ったような虚妄。
与えられた暗がりに仄かに揺らめくのは、何も無い、只の黒。光の残滓も彼女の瞳も今は
無い。頬を擽られる感覚、痒みと痛みを入り混ぜた塗料を薄く塗られていく。髪先の筆。
鼻へと滑る香りは、冷たい石鹸の匂いだけ。
じとりと脇を汗が過ぎる。生温い。噎せ返る暑さは、重なり合った互いの温度。風の無
い聖母の御許に広がった世界を埋める湿気。それと、高鳴りながらも次第に冷めていく、
私の心。幾度も穿たれた首筋の傷痕にまた舌が這う。生温い。何もかもが生温く、夏の瘴
気に当てられて、腐れていった様で。軽い頭痛、軽い眩暈、息が苦しい。平衡感覚を失っ
た視界が与える、私を中心に地面が渦を巻いていく馬鹿げた誤謬。何もかもが、生温い。
首筋を這う舌は、鎖骨へ、下着がきつく締め上げて出来た胸の谷間へ。歯が私を傷つけて
いく。全身を矢で貫かれ、死に絶えるアウグチヌスの喜びと苦悩。穿たれる数だけ私の中
で死んでいく、何か。彼女の手が背中に回る。其れに合わせ、私は少し腰を上げた。僅か
に空いた隙間へと腕が滑り込み、下着を止める金具を布越しに外す。かちりと音も立てず
に、背中越しに感じるだけ。じりりと制服のチャックを外す其の感覚も。そっと腕を押さ
える指先が離れ、私の肩へと伸びた。
もう何度目になるだろうか。唇がまた犯される。只、濡れそぼっていくより他には何も。
私達が出来るのは、若しかしたら此の口づけだけなのかもしれない。互いに種を持たない
私達を、唯一繋ぎとめていられる物は。一つ、身を包む布が剥ぎ取られていく。引っかか
っただけの下着の隙間、吐息が潜る。胸だけを露にされても、隠すでもなく私の腕は頭の
上で磔になったまま。するりと袖から抜けた筈なのに、螺子で巻かれた様に自動的に其の
場所へと伸びて。そして、指先一つ動かせない。琥珀色よりも尚黒い、見えない瞳に縛られて。
爪が、乳房へと食い込んだ。子供が手に入れた玩具を振り回す身勝手さで、胸はつかま
れ、撓み、弄ばれる。執拗に、引き千切る程に強く、揉み抱かれては歪む。一片の優しさも
感じられない愛撫。指先は何時の間にか舌へと代わり、ざらついた汗ばんだ肌から滑る生
温い肉が更に私の胸を責め立てる。乳首の袂に広がった輪郭に沿って、舌が這い、ぷつり
ぷつりと粟立った肉腫を舐め上げ、産毛を吸う。もどかしい。彼女の舌は決して、硬く勃
つ突起には触れず、只其の周囲を、胸の肉を抉り啜るだけで。どくりと一つ心臓が鳴った。
腹の底、青黒い感情が滞る。息が狂う。閉ざされた視界に紅い泡沫が浮いては消え、また
浮かび、私の心を削り取る。
耐えられなくなっているのは、彼女が私の敏感な部分に触れないからじゃない。彼女の
想いが激しく攻め立て、私の心を導こうとする其の場所が、余りにも甘く見え、其れ故に
荊の棘が私を締め上げるから。もう戻れなくなりそうになる、自分が、何よりも、怖かっ
たから。辿り着いてしまえば、多分楽になる。けれども、其れ以上に。微温湯に浸かりき
ってふやけた後に、躯に残る冷たさは、風の一撫ででさえ、凍えさせ。其れでも、情欲の
蜘蛛が躯中を這い回り、責め立てる。目の前で優しく広がる、奈落へと。
「聖…お、ねがい」
発狂した唇が、勝手に言葉を紡ぎ始める。
唾液で濡れた乳房を指先が尚も捏ね回し、舌がまた私の耳殻をなぞり。
「何を?」
悪戯を隠す子供の声が耳へと流れ落ちる。後一歩、私を突き落とそうと、囁く。
「触っ…て」
「何処を?」
風船から空気が滲む様に、含んだ笑いが鼻を抜ける音が聴こえた。躊躇いが喉を押し潰
し、只一言を云わせない。云ってしまえば、もう。後は、幾度と無く繰り返された反復の
中で心が緩やかに、死ぬだけ。此の視界の様に、唯の黒よりも他には何も見えなくなって
しまうから。何処に触れて欲しい。私は、何処に触れて欲しいのだろうか。幾ばかの沈黙
と逡巡は羞恥から来るものだと彼女は思っているのだろうか。こんなにも喉が渇いて、仕
方が無いのは情欲が私から水という水を奪い去っているからだと。唯の此の一瞬だけでも、
呑み込まれてしまっているのだと。
「…に」
「何、聴こえないよ?」
「……神に」
発狂した唇は、全てを裏切る。
私の中で未だ蹲り、躯に犇めく生理的な欲動を、侮蔑し、諦観する、神に触れて。此の
リボンの様に、私の目の前から、少しだけ、ほんの少しの間だけ、遠ざけて。貴女の中に、
今は埋もれていられるように。
ひくりと、乳房にかかる指先が痙攣した様な気がした。其の震えは、動揺か、憤怒か、
失望か。いずれにせよ、私の唇は彼女の心を深く傷つけ、其れ故に私にも薄紅の傷痕を。
何も云わず、彼女は私の胸を乳首ごと、蛇が卵を飲み込む様に、咥え込む。かりかりと
音がなるかの様に、歯の先で肌を削り、其の輪を窄めていく。ずるずると唾液を啜る音だ
けが厭に耳につく。びりびりと剣山で神経を撫でられる様な刺戟が胸を伝い脊髄に走り、
脳を穿つ。荒くなる息、遠くなる思考、黒よりも尚黒い視界。縮まった歯の輪が最後に捉
えたのは、硬さを失わない突起。
きちり。
肉が軋む感覚。千切れる程の痛み。捩じり、捻り、噛み砕かんと歯と肉が立てる軋み。
皮膚が裂けて、肉も切れ、血の奔流で彼女の顔が汚れていく錯覚。舌先が押し潰された先
端をちろりと舐める、其れさえも快感は呼ばず、擦り剥いた傷口に滲みたオキシドールの
痛みだけしか。スカートの隙間、太股の上を腕が撫でる。爪を立てながら、硫酸で出来た
蛞蝓が這う様な痛みを与えながら、私の足を撫で、其の奥へと。下着越しに、指先が私の
秘裂を削る。撫でるなんて物ではなく、私の何もかもを打ち壊して、其の欠片を掻き集め
て、深い穴へと埋めてしまえればと思っているような、激しさで。布を突き破る様に、陰
唇の奥へと下穿きごと指がめり込む。膣の内側に感じる、ざらりとした布の感触。やすり
で削られていく。既に、少しだけ濡れていた私の裡は、其の刺戟をやはり痛みとしか受け
止めず。悲鳴が聞こえた。躯が、悔恨が、立てる悲鳴が。
「せ…」
発狂した唇は、未だ縋る音を立て。身体を犇めく悦楽の裏返しの痛みが心を次第に凍え
させているのに。其れでも、尚熱を帯びた欠片を言葉に載せる。其れでも、答えは無い。
其処に、私を思う声は無い。其の代わりに、指先は尚激しく私を抉る。爪を立て、布を突
き立て。もう一つの指が、其れがどの指かさえも判らない、布を押しのけ、草叢を掻き分
け、肉芽へと伸びる。蚊に食われて出来た痣の痒みを痛みで抑え込む様に、爪が食い込む。
空白が背中から頭へと突き抜け、魂を弾き飛ばしてしまう。何も無い。全身を駆け巡る刺
激より他には、もう何も持たない。唯の抜け殻が、嗜虐の情欲に喘ぐばかり。砂時計はも
う時を刻むのを止めてしまった。時間其の物が、数えられない。一年よりも長く、一秒よ
りも短く、繰り返される愛撫と云う名の鞭に、私は唯打たれ続けるだけ。
不意に、一切の刺戟が消えた。
衣擦れの音。近くで聴こえている筈なのに、どうしてこんなにも彼方に居る様に思うの
だろうか。此の距離は、一体何処から何処までの物なのだろうか。
急に下腹部に空気の流れを感じた。足を滑る下穿き、只なすがまま、指先一つ動かせな
いまま、私の秘所は晒される。其の上に、濡れた肉の感触。此れは舌じゃない。もっと熱
い、物。躯が圧し掛かり、揺れ始め、其の時私は彼女が自分の陰唇を、私に擦り付けてい
るのだと知り。もどかしい刺戟、先程とは違う生温い刺激がじっとりと込み上げてくる。
水音が僅かに聞こえる。粘液が混ざり合う音。陰核が上に揺れ、下に落ち、単純な反復を
行う。抜け落ちた筈の魂がゆっくりと戻る。元あった器の場所には既に薄く塗られた何か
が、其の厚さと同じだけ、魂を歪ませる。其の歪みが、尚一層。くちゅりくちゅりと音が
次第に大きくなっていく、其れにつれて厚さが増し、じっとりと汗の様に情欲に汚れてい
く。高みまでは未だ遠い。刺戟は痒みへと変わりつつあった。其れでも彼女は腰を止めな
い。泣き叫ぶ子供が駄々を捏ねているよう。揺すぶられ、視界を覆う象牙の布が僅かに解
け、隙間から光が溢れ。
ぽつりと、温い雫が胸に落ちた。
隙間から覗き込む様に、視線を下に落とす。
俯いた、彼女の顔は見えない。彼女の鳶色の硝子球は見えない。
其れ以上、見る事は無く、そっと目蓋を閉じた。
此の、儀式めいた反復に名前があるのならば、其れは愛に満ちた、拷問かもしれない。
事を終え、制服を乱れさせたまま、膝の上で猫の様に瞳を閉じる彼女の顔は、いつかに
見たビスクドールに似ていた。僅かに漏れる吐息を、スカート越しに感じる。生温い。何
もかもが生温い。不意に前を見ると、其処には聖母が只微笑み、ステンドグラスに汚れた
光を受けていた。其の姿は、血に濡れているよう。皮肉も何も感じない、只其処にあると
言う事実だけが埃の様に御堂に積もっている。
僕は虚無を開拓する。
いつかに読んだ本の一節を声には出さずに口ずさむ。
君は虚無を開拓する。
彼は虚無を開拓する。
彼女は虚無を開拓する。
僕らは虚無を開拓する。
僕は虚無を開拓した。
其の繰り返しに名前があるのならば、多分、今の様な事を云うのだろう。
今頃になって聴こえてきた蝉の声は、春の終わりを告げていた。
彼女が何を意図して、言葉を紡いでいるのか、志摩子には理解が出来なかった。只、神
が、只其処にいると云う言葉だけが髪の一筋に絡みついた桜の花弁の様に染み付いて離れ
てくれない。少女は、再びポケットの中から小さな銀のロザリオを取り出して、指先で弄
ぶ。何を意図するでもなく、何の価値がある訳でもなく。
「只、神が、神と云う存在が其処にあるというだけで、互いが互いに傷つけ合う。まる
で、桜が綺麗だと皆が言うから、桜が綺麗でないといけないと思い込む様に。誰も望んで
いはいないのに、桜自身が綺麗であると言われる事を一縷たりも望んでなどいないのに、
そうやって争い、いがみ、憎み、嫉み、傷つけ合って、一人になる」
一つきりの瞳。一息で語られた言葉。一人きりの自分。彼女の心は此処に無いと。
「其の存在が、大きければ大きい程に、人は神を一つきりと思い込む。其れ以外には、
何も無いかのように。人が造った概念だと知っていながらも、其れを自分で偽る。騙し、
自分の嘘に自分で信じ込む」
幾度と無く語られた空虚妄言。神を信じぬ者が語る世迷言でしかない。爛れた匂いと共
に胸を締め上げる不快感。彼女は何処に志摩子を導こうと云うのだろうか。其の先に何が
あると云うのだろうか。
「だからこそ、神を、自らの神を疑い、殺してしまう時、人は其の贖いを受けなければ
いけない」
そう言って、彼女は薄く笑った。其の顔は、泣いている様だった。
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