+水中花の腐る日+
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狭くて、汚くて、動物特有の噎せ返る様な臭いが立ち込めた、檻。
私は何時も其の真ん中で、薄く敷かれた藁の上に座っている。
厚ぼったい異臭に囲まれたまま、座っている私の前を何人もの人が通り過ぎていく。笑
いながら、目を背けながら、最初から私なんか此処に居ないみたいに。何人も、何人も、
通り過ぎては次の檻へと向かう足を眺めながら、私は泣く事も無く、喚く事も無く、座り
続けている。棺に閉じ込められた心。深く埋められた私の感情。身じろぎ一つしないまま
眠り続ける私の慟哭。其れでも、人は、只通り過ぎて行くだけで、何一つも私には投げか
けてくれない。罵声も、賛美も、憐れみも、憤りも、愛情も、何一つとして私には与えてはくれない。
どの位の時間、座っているのだろう。気の遠くなる程の一瞬。夢の中にしか流れていな
い歪んだ時間。永遠の一秒。私が思い込んだ長さだけ、砂時計の砂は落ちる。人の流れは
途切れる事無く続く。等しく私に無関心なままで、延々と。
其の足の群れに混じるあの人の影。穏かに微笑みながら過ぎていく、幻影。呼び止めた
くても、声が出ない。声を出す事が出来ない。身体が忘れてしまっている。目の前の格子
に手をかけて、其れでも懸命に叫び続ける。誰に聞こえなくても良い、只あの人の耳にさ
え届けば。其れでも、あの人は、皆と同じ様に、通り過ぎていく。
狭くて、汚くて、動物特有の噎せ返る様な臭いが立ち込めた、檻の中。
只、私を一人で置き去りに。
あの人は、遠くへ行ってしまう。
最後の一瞥もくれぬままに。
酷く、厭な夢を見た気がする。
カーテン越しに伝わる鈍い屋根を打つ雨の音で、彼女は目が醒めた。生温い六月の匂い
が部屋に満ち渡り、額に重く圧し掛かってくる。
目蓋の端に違和感を感じて、指を当てると未だほの温かい水滴が沁み込む様に、纏わりついた。
涙。
涙の雫だった。
夢の残滓が、目蓋を伝って、耳まで縦に流れていた。砂糖がこびりついたお菓子の様に、
凝固した涙の垢が瞳の周りに固まって、上手く目を開けさせてくれない。
濁った視界、濁った思考、濁り続ける外の景色。
灰色に薄煙る、何もかも。
(まだ、涙って出るんだ…)
今迄あれ程泣いたと云うのに、未だに自分の身体は涙を持っている。人が流せる涙の量
は決まっていると云うのに、この位の悲しみでは底を尽きる事はないのかもしれない。
(この、位の…)
口の中で、頭に浮かんだ言葉をゆっくりと反芻する。氷を舐め齧るように、奥歯でじっ
とりと噛み締める。この位なのだと、所詮は其の程度なのだと。
街を打ち続ける水滴の音が耳に障って仕方が無い。ぎちぎちと頭を絞められる痛み、き
りきりと音が耳の奥を責め立てる。塞ぎたくても、指は一本も動かない。錆びた機械の鈍
重さ。みりみりと軋む身体。尚も、零れ落ちる涙。どんなに眼が沁みようとも、拭い去る
事も出来ないまま、只痛みだけが雨音と一緒に身体に降り注ぐ。其れでも、動けないまま
に、微かな痛みだけを溜め込んでいく。
痛い。
痛かった。
継続し続ける痛みは、例え僅かでも気を狂わせる程に彼女の心を蝕んでいく。腐る。何
かが腐る。何もかもが腐り続ける。何もかもが糜爛し、腐敗し、崩壊し、壊死して、形を
失っても未だ胸の奥で泡沫を立て続ける。雨にも混じらず、風化もせずに、只其処に在り
続け、心を蝕んでいく。
(おき…なきゃ)
茫洋とする思考、尚も言う事を聞かない躯。其れでも、待ってはくれない。時間も、時
間に支配された世界も、世界に支配された人も。誰も、何も、待っていてはくれない。全
ては自分を置き去りに、緩やかに流れていってしまう。
無理から身体を起し、湿ついた錘が吊下がった腕を挙げ、眼を擦る。ぼろぼろと黄色く
固まった涙の破片が削れ落ちる。パジャマの裾が少しだけ色の濃さを増し、彼女の手に張
り付く。
冷たかった。
窓の外には線となって流れる景色。縦に振る雨さえも今は只の色。
辛うじて空いたバスの席に身を捩る様にして座ると、ずしりと何かに押し付けられてい
る様な錯覚を覚えた。座席がまるで泥沼の様に祐巳の身体を沈ませようとしている。
とろとろと眠りが全てをモザイクに変えていく。霞み続けるありふれたバスの景色、歪
み続ける雨模様、ぐるぐると交錯し続ける頭。身体は更なる眠りを求めるのに、意識が其
れを許さない。膝に乗せた鞄が酷く重たい。暑い。背筋に一つ汗の雫が流れていく。湿気
と人の熱で蒸された匂いが、鼻を通り越し、どろりとした熱気となって頭を覆う。息苦し
い。空気が喉を通っていかない。熱病に魘されている様で。
(どうして、こんな事に、なっちゃったのかな…)
額を窓硝子に貼り付けると、冷え切った水滴が心地良かった。
どろどろに溶けていく意識。渦になり、雨音と溶け合って、まるで神様たちが世界を作
る前の様な、混沌。其の端々に、硝子片となって入り混じる焦燥、憧憬、そして失望。
(ガラじゃ…無かったのかな)
混濁する思考の隅にちらつくのは、特徴的な縦ロールの彼女。そして、由乃や志摩子、
此れまでに出逢った色々な人たちの幻影。笑顔、憂鬱、完璧に作り上げられていた今まで
の自分のイメェジ。持てる人間には持てない人間の心など、分かるのだろうか。
(自分の良い所には、気付き難い…か)
今でも、友人の言った言葉の意味は良く分からない。否、今だからこそ、余計に分から
なくなってしまう。自分が必要ならば、どうして彼女は何も言ってはくれないのだろうか。
どうして自分に気遣いの言葉の一つもかけてはくれないのだろうか。どうして、この悲し
みで凍てついた心を撫でて、温めてはくれないのだろうか。
平凡な、極平凡なこんな私を妹にしたいと言った彼女の言葉。周りから見れば、憧れの
薔薇さまと親しくなれるのは羨ましいのかも知れない。でも、其れは外見だけ。高級な菓
子箱の中に、一つだけ一粒20円のチョコが紛れて平気な訳はない。誰も、何も言わなかっ
たとしても、とても優しくしてはくれていたとしても、其れでも安物のお菓子が抱えた憂
鬱を払ってくれたりはしない。根っこの部分で、ずれてしまっている其の世界で、平気で
笑える程、自分は決して強くはない。
(何で、こんな事考えてるんだろう)
熱と睡魔が余計な事を考えさせてしまう。薄暗がりから沢山の腕を伸ばして、自分を引
きずり込もうとする。何も考えず、何も感じずに、只静かに泥の底で眠らせようとする。
この雨で濡れた世界みたいに。
すうっと薄く裂けた視界の隅に、黒ずんだ茶色が見えた。
視線だけで振り向くと、其処には猫が。ずぶ濡れで震え続ける小さな仔猫。
(誰かに…拾って貰えるのかな)
其れとも、見向きもされぬまま、あそこで凍えたまま、鳴く事も無く…
頬に生温い温度を感じた。
祐巳は泣いていた。声も出さずに、涙だけで。
同情か、投影か、祐巳自身にも其れは分からなかった。
何時の間に眠ってしまっていたのだろうか。
窓に押し付けていた肌がプレパラートにでも閉じ込められている様な平たい圧迫の感触
を残している。熱気で曇った硝子に丸く自分が確かに其処に居た傷痕を残して、濡れてい
た。其の場所に、はぁっと息を吹きかける。また白く、今度は薄く、膜が出来た。
そっと指先を伸ばして、名前を印す。
あの人の名前と、其の下に自分の名前を。
書いた先から滲んでだらだらと流れていく文字。歪んで読めなくなる程に溶けてしまう
名前。いっそ、こんな風に、溶けえてしまえば、何も憂う事は無いのかもしれない。
彼女の様になってしまえば、何もかもが上手く行くのだろうか。
もうすぐに目的地には着く。
其れまでに、溶け合えるだろうか。
せめて、名前だけでも。
バスから降りても、頭に巣食う青い蜘蛛は決して其の巣を崩す事無く、にたにたと薄ら
笑いを浮かべ続けていた。珠の雫が垂れ下がる罠に囚われた甘い色をした蝶が解き放たれ
る時が何時になるのか、其れは誰も知らない。祐巳も知らない。
黒く濡れて甲虫の背中みたいな光沢を帯びたアスファルトの上に足を載せる。ぐちゅり
と水を含んだ砂利が靴底にへばりつく感触。突き刺す霧散した雨の雫が、火照り切った身
体を一気に締め上げる。かくかくと自動的に震えだす身体、綿雲の様な吐息。其れでも、
視界の混沌は上手く元の世界と組み合わされない。二重写しの世界。軽い吐気と胸につか
えた塊の所為で、口中に血と似た味が広がっていく。
他の暗緑色の制服に紛れながら、祐巳は一歩一歩を踏みしめていく。軽い風邪を引いた
様な体調の所為ではない、重さが圧し掛かり、校門の前までの距離が酷く遠くに感じた。
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ」
「ごきげんよう」
明るく、それでいて憧れの色の混じった下級生の声に、笑顔で返そうとする。
自分でも愛想笑いを浮かべていると分かる程の、作り笑顔しか出来なかった。顔中の筋
肉が上手く機能してくれない。心にも無い表情を浮かべる事を許してくれない。上手く振
舞えない。お姉さまの様に、祥子さまの様に、気丈に振舞う事が出来ない。
其れでも、彼女達は楽しそうに、去って行く。
自分を置き去りに、自分達の育つ温室へと。
幾人も幾人も、そうやって自分だけを置き去りに。
―人間は、孤島のようなもの。
誰の言葉だったのだろうか。不意に、沼に浮かんだ白濁の泡沫。
寄せては返す白波に蝕まれても、島は島でしかないのかもしれない。何時まで経っても、
島は島のままで、たった一人きり。青い海にたった一つきり。泣くでもなく、笑うでもな
く、只静かに其処に居て、只佇む。どんなに波が、自分に語りかけようとも、奥には届か
ない。届いてはくれない。
―マリア様も、孤独だったのだろうか。
気が付けば、目の前におられるマリア様に手を合わせ、ふとそう思う。
祐巳の心の中を見透かしているのかいないのか、マリア様は相変わらず穏かな微笑を浮
かべているだけ。
何処をどう歩いたのだろうか。確かに、自分は教室へと向かっていた筈なのに、気のつ
いた時には、古い温室の前に居た。
普段よりもずっと古びて見えるのは、この雨の所為なのだろうか。
其れとも…
答えの無い煩悶。意味の無い自問。
其の全てを見透かす様に、灰色の半透明な闇の中で、温室は眠り続ける。
温室の扉を開くと、噎せ返る湿気に彩られた冷たい花の香。
祐巳は、傘を畳むと、扉の横に立てかけた。青白い指。凍え切って小刻みに震えている、
指の先。まるで、あの仔猫の様に。震えて怯え、其れでも救いを求め続ける、あの仔猫の
様に。
少し自嘲気味に笑うと、そぼそぼと中へと入っていく。
蕾のままで眠る花、枯れ落ちて萼と実だけになった花、そして咲き誇る赤い薔薇。
ロサ・キネンシス。
四季咲きの赤い薔薇。私の名前、お姉さまの名前。人の羨む、花の名前。
「私…お前にはなれないかも」
そっと撫でる様に、優しく花の茎へと触れる。
「痛っ…」
指先に走る鋭い痛み。茎に生えた棘に触れてしまった。目の前に持っていくと、人差し
指の先からじわりと赤黒い水が溢れてくる。とっさに口に咥えると、血の味が、鉄錆に似
た味が舌の上に僅かに広がっていく。
惨めな、味がした。
「あ、あれ?」
止め処なく、水の張ったコップを倒した様に涙がぼとぼとと流れ始めていた。喉の奥か
ら込み上げる嗚咽。言葉にならないままに、散り散りになっていく泡沫の白い黴が、温室
へと零れ出す。消えては溢れ、溢れては消え。拡散し、肥大し、溶解し、最初からなかっ
たかの様に温室の冷えた空気に消えていく。
「うっく…ひく…」
一度切れてしまった糸は、もう何も紡がない。
血の滲む指を胸の前で抱え込み、祐巳は蹲って、泣き続けた。空の涙がばたばたと温室
の壁を、屋根を叩く。祐巳のか細い嗚咽など掻き消してしまう程に強く。鼓膜を穿ち、頭
にぎりぎりとした痛みを与え続ける程に激しく。世界を、人の心をも、灰色に染め上げる
程に優雅に。
空は泣く。
浴びる者を嘲笑うが如く。
「祐巳さん?」
不意に、後ろで扉が軋む音がした。
「祐巳さん、どうし…」
振り向くと、其処には声を失う程に驚く桂がいた。そんなに自分は酷い顔をしていたの
だろうか。綺麗に泣いていた訳じゃない。綺麗に泣ける筈など無い。美しく優雅に、其れ
でいて儚く泣ける訳など。きっと、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっているんだろう。名前
も無い雑草には、似合いの顔。
「祐巳さん!」
手に持っていた傘も振り落とし、濡れる肩も蔑ろに、彼女は祐巳の元へと駆け寄った。
「どうしたの、祐巳さん?!」
ポケットから、小さなティッシュの袋を取り出して、手の中に握らせる。覗き込む瞳、
肩を掴む指先が冷たい。剥き出しになった一枚を取り出そうとしても、震えて上手くつか
めない。寒さだけではない、震え。
「だいどうぶ…」
鼻が詰って言葉にならない。間の抜けた、深刻さの欠片も無い、惨めな残骸だけが、こ
の雨にふやけて、ばらばらと外に漏れだしてしまう。
「ちっとも大丈夫じゃないじゃない…」
ほら、鼻かんでと一枚取り出し、手に握らせる。ざらざらとした薄い紙の感触が手の中
で指にしっくりと絡みついた。寒さで凍えた指に燈る温もり。凍えているのは、きっとこ
の雨だけの所為。決して、蒸発しそうに熱いこの身体の奥に眠る心の所為では、祥子の所
為では無い筈だと、信じたかった。
「ありがと…」
一かみしても、鼻の奥には未だに閉塞の粘液が直ぐ穴の側まで溢れている。幾らかもう
とも、鼻の頭が擦り切れるまでかんだとしても、抜け落ちそうに無い。
幼い頃に見た花。
澄んだ白の先を彩った目の冴えるような青色を持つ花弁が、濁った水の張った瓶の中で
ゆらゆらと金魚の様に踊る、花だった。
父に尋ねると、柔らかく微笑んで、花の名前を教えてくれた。
花の名前は水中花。
水の中でしか咲けない、偽りの花。
だから、水の中に何時までも閉じ込めておかなければいけないのだと、そう付け加えた。
水の中でしか美しくは咲けない偽りを、外の世界へ出してはいけない。空気に触れると、
醜く爛れて、枯れてしまうからと。例え、この中でしか生きられないとしても、其れを嘆
いてはいけない。この花には、これが全てなのだから。
あの花は、何処へ行ってしまったのだろうか。
もう、腐り落ちて、枯れてしまったのだろうか。
私は、其の花を、何時の間にか外へと連れ出してしまったのだろうか。
もう涙は枯れてしまっただろうか。
花の香が沁みるほどに瞳が乾く。
剥きだしのままの瞳に細かい砂粒を落とされている様な痛み。
「もう、大丈夫?祐巳さん」
「うん…ごめんね、何か」
いいよ、と桂は笑った。例えるならば菫。野に咲くささやかな花の微笑みが、其処には
あった。薔薇よりも気高く、何物も寄付けぬ程に美しくは無いけれど、其れでも何よりも
可憐で、しっとりと身を包む様な優しい微笑みに祐巳には思えた。
「どうしたのって…聞くまでも無いか」
少しだけ翳りのある笑いを浮かべて、桂は温室の壁を見つめるように、見上げていた。
多分、彼女には分かっているのだろう。いいや、彼女だけではなくて、薔薇に憧れる者
は皆、知っているのだろう。自分と紅薔薇の名を冠する彼女との間に何があったかなど。
人の口の端に上り、咲き誇る噂の花。水となるのはきっと自分。群がる虫たちに非は無い。
皆、花の芯に蛆が集ろうとも、其の蜜の甘さに代わりは無いのだから。水の色がどんなに
くすんでいようとも、花の匂いに代わりは無いのだから。
「やっぱり…無理だったのか」
自分が薔薇になる事など。魚が空を飛びたいと願う程に無謀で、愚かしい事だったのだ
ろうか。大きな魚に食べられてしまう事だけを、怯えているだけの方が、ずっと幸せだっ
たのだろうか。
腰を掛けた二人の空白を雨に打たれた温室の叫びが少しずつ少しずつ削っていく。穴だ
らけの沈黙、石の様に凝固した指先、扉に鍵をかけてしまう感情、後は只光を収束するだ
けの機械になった虹彩。
「…私さ」
桂の爪先が温室の土に螺旋を描いていた。意味も理由も無い、只の線描。
「…お姉さまと一回破綻しちゃったじゃない?」
「うん…」
彼女も、以前の『黄薔薇革命』の時に自分のお姉さまとの仲を解消してしまった人の一
人であった。
「あの時は、さ。自分とお姉さまが合わないって、自分には吊り合わないって思ってた
んだけどさ…後から、思い直したら、ちょっと違ったんだよね」
「違った、って?」
「うん…私さ、結局憧れていたんだ。薔薇さまに」
いっそ、自分もそうなりたい程に。
例え、紛い物であっても、一瞬で椿の花が枯れ落ちる様に凋落してしまおうとも、其れ
でも硝子ケースに飾り立てられる、何かになりたかった。
「桂さん…」
書き記した混沌とした線描を、描いた物と同じ爪先でぐちゃぐちゃに書き崩すと、そっ
と立ち上がった。赤い薔薇の元へと。
「そんなに…良いもんじゃないよ」
自嘲気味に、幾らかの皮肉も混じり合った笑いが鼻息と共に零れ落ち、白い息となって
消えた。
「そんなに…良いものじゃないよ」
背を丸め、薔薇の花を眺める友人の顔は、見えない。
「私ね、祐巳さん」
赤い花。紅い薔薇。茨を持った美しい華。誰の手にも触れる事を望まない、誰の胸に抱
かれる事も拒む、誰の物にもならない、孤高の花。
「私ね…」
貴女が羨ましかった。
何一つとして取り得も無く、何一つとして拒まず、何一つとして美しくの無い花が。
「…貴女が」
何一つとして持たない人間が、直ぐ手元にあったと思っていた花が、遠くへ祭り上げら
れる、其の姿が。羨ましかった、妬ましかった、そして、悲しかった。私は要らない花。
必要とされない花。道端で小さく咲いて、小さく枯れる、小さな小さな取るに足らない花。
「欲しいの」
其の目が欲しい。其の唇が欲しい。其の寵愛が、貴女を取り巻く寵愛の全てが、欲しい。
「…え?」
友人の驚く声。
「何で…祐巳さんなの?」
何故、私では駄目だったのか。
「何でも平均点で、顔だって普通、特別凄い家柄な訳でも無い、特技もだってそう」
私と同じ、花。
「祐巳さんが、どうして薔薇さまと呼ばれる存在で、私は」
何の価値も無い、雑草。
「そんなに…」
(…そんなに良い物じゃない。そんなに良い物じゃないよ、桂さん)
また涙が。感情の礫が喉の奥で犇めき合って、言葉を磨耗させてしまう。吐息さえも、
詰らせてしまう。
私は、望んでいない。望んでいなかった。薔薇の中で咲く事なんか、出来やしない只の
名前も無い花だったのに。そんな事なんか、出来やしない。
胸に沈むのは憤りにも似た、嗚咽。
皆が持て囃し、憧れ、祭り上げられても、誰も其の悲しみに、寂しさに触れようとはし
ない。どんなに周りに人が自分の周りに集まってきたって、誰も其の孤独を知らない。知
ろうとはしない。硝子に閉じ込められた薔薇の苦しみを。皆、上辺だけの綺麗さだけに目
を取られているだけ。
「良い物、じゃない?」
ぷつり。ぷつり。ぷつり。ぷつり。
何かが引き千切られる短い音。雨の声で消えそうな程に小さく、儚く、弱々しい音。何
処から聞こえてくるのか、良く分からない。
「私達の様な雑草には、身が重い?」
ぷちり。ぷちり。ぷちり。ぷちり。
何気なく目をやった友人の足元。其処には紅い、血の様に紅い斑点が幾つも幾つも地面
に落ちていた。はらはらと零れる紅い雫が齎す、紅い斑紋。
「好きな人からも見棄てられてしまう程に、不釣合い?」
ぺち。ぱきり。ぷつり。ぷちり。ぷち。ぷつぷちぷち。
尚も音は鳴り響き、斑点は増え続け、彼女の足元を紅く紅く染め上げる。
ぺきり。ぷちぷち。ぷつり。ぺち。ぷきり。ぺきぷちぷつつ。
「憧れていた物が手に入っても、水から出したら枯れる作り物の花みたい?」
ぷちぷち。ぷつ。ぺきり。ぱきぱき。ぷつぺち。ぷつり。ぷちり。ぷつ。
ぷちぷち。ぷつ。ぺきり。ぱきぱき。ぷつぺち。ぷつり。ぷちり。ぷつ。
ぷちぷち。ぷつ。ぺきり。ぱきぱき。ぷつぺち。ぷつり。ぷちり。ぷつ。
音が、音が激しさを増し、紅く紅く染め上げていく。
「なら、祐巳さん」
すくっと立ち上がり、此方を見返す桂。
「私と交換しましょ」
にたりと虚ろに笑う彼女の口からは血が吹き出ているかのように、赤い薔薇の花弁が溢
れていた。
今日こそは、祐巳に伝えなければ。
ろくに眠りを取っていない躯が、今は煩わしいほどに重苦しい。疲れが抜けない。車酔
いの残滓が未だに残っている。
今日こそは、ちゃんと祐巳と話をしよう。
どうしても、話をしないと。
傘の柄から雨の積もった重みが腕に伝わり、水の中を歩く時の様に体中へと其れが纏わ
り付いてくるようで、煩わしかった。自分が歩く事を、世界が拒絶している。
分かってくれる。祐巳ならば、多分分かってくれるだろう。私を許してくれる。
彼女から、見放されたら、私は…
祥子の足は、何故か温室へと向かっていた。
ふらりふらりと頭を、否身体全体を揺らしながら、桂は祐巳の元へとたどたどしい足取
りで近づく。口からは真赤な花弁を溢しながら。
「か、桂さん?」
虚ろな瞳。焦点の合わない茫洋とした視線。花の血を吐く唇は青く凍えていた。
其の姿は、恐怖というよりも、生理的嫌悪を催すような、不快で、奇怪で、何よりも気
持ち悪かった。背筋に氷の躯を持つ蛆が幾匹も幾匹も這い回る。ぷつぷつと浮き出る肌の
粒、髪の毛が根元から引き抜かれてしまいそうな悪寒。
「祐巳さん…貴女には、分からないのかも」
口の端からは緑色の蔦が一筋だけ顔を覗かせていた。茨が口の中に刺さっているのか、
何よりも濃い紅い雫が蔦を這いながら、顎へと流れていく。
「貴女には、私の気持ちなんか分からないかも知れないね。どんなに望んでも手に入ら
なかった人間の気持ち。其れを、容易く手に入れてしまった貴女には。自分だどれだ
け下らないか、どれだけ無価値か、眺めるだけでも思い知らされる人間の気持ちなん
か。居場所が、自分が此処に居る理由が無い人間の気持ちなんか」
かきりりりと金属同士の噛み合う音。
彼女の右手には何時の間にか、刃を長く出されたカッターナイフが握られていた。
「其れは…」
何を、言っても無駄だと、分かっている。彼女の目は何も見ようとしていない、彼女の
目は何も聴こうとしていない、彼女の頭は何も受け入れようとしていない。其れでも、自
分は言わないといけないと。彼女に話しかけないといけないと。自分の為じゃなくて、彼
女の為でもなくて、祥子さまの、自分が大好きなお姉さまの為に。
「其れは…違うよ。薔薇さまだって、桂さんだって、其れだけじゃない、皆、皆一緒なんだよ…」
自分の居場所なんか誰にだって分からない。此処に居て良いと言われたって、其処が本
当に自分の居場所だなんて限らない。どんなに孤独でも、どんなに自分が価値が無いと思
えても、其れでも…
其れでも、花は、生える事の出来る場所でしか、生えるしかない。
魚が空では生きられないように。
獣が海では生きられないように。
鳥が大地では生きられないように。
だから、お姉さまは、自分を欲したのだと。あの時、確かに自分を必要にしたのだと。
―では、どうして裏切った?
不意に、もう一人の自分の声がする。しっとりと濡れた布が肌に纏わり付くように、心
に絡みつく。
―どうして、皆其処でしか生きられないと知っているのに、永遠に添い遂げられない?
何かが掴みかけていた。確かに、祐巳には何かが分かりかけていたのに。お姉さまの為
に、何かが理解出来かけていたのに。其れなのに、もう一人の自分は嘲笑いながら、其れ
を粉々に踏み躙る。作りかけのパズルのピースをばらばらにしてしまう。
目の前には赤。
桂の顔が、息も聴こえる程近くにあった。
温室の壁に手をつき、祐巳の顔を覗きこむように屈む彼女の顔が。
「…ったような」
薔薇の花弁が舌に纏わり付いているのか、くぐもって言葉が良く聞こえない。ばらばら
と唾液で濡れた花弁の雨が祐巳の膝を濡らす。
―知ったような口を聞かないで。
そう、言ったような気がした。
「薔薇である事と、そうでない事がどれ程大きな物か、分かりもしない癖に…知ったような事を言わないで!」
もう、彼女の口の中には花弁は無い。その代わりに、暗がりが、底の無い暗闇が口を
開けて笑っている。
「もう、要らないのでしょう…薔薇は、憧れだけになった薔薇はもう祐巳さんには必要無いのでしょう?」
なら、私に頂戴。
そう言うと、桂はカッターナイフの刃を、祐巳の首筋へと押し当てる。
最初に冷たい氷。其の後に熱い塊が首から溢れ出ていく感覚。
―私…今、切られたんだ。
人は、余りに強い刺激を受けると、対する反応は反比例して小さくなっていく。自分が
今殺されていると言う事さえも、分からなくなる程に。
赤。全てが紅く染まっていく。温室の壁も、湿った土も、埃に塗れた茶色い窓も、自分
の視界さえも。赤く紅くあかく。粘りつく紅い闇が全てを閉ざしていく。泣きながら笑う、
友人の顔さえも、赤く閉ざされる。
どうして、彼女は、そんなに悲しそうに笑うのだろう。
腕の中で祐巳の抜け殻が、赤黒い血を首筋から溢れさせながら、びくりびくりと痙攣し
ている。桂は、そっと其の傷口を舐め取る。少し塩の混じった、鉄の味。
「ごめんね、祐巳さん…でも、大丈夫…」
今からは、私が祐巳さんになるから。祐巳さんの全てを私が引き継いであげる。
其の悲しみも、其の孤独も、其の苦しみも、其の憂鬱も、何もかもを、私が引き受けて
あげる。だから、今はもう眠っていてね。同じ花だから。名も無い、花なんだからね。私
も、祐巳さんも。
腐りかけの桃の汁を吸う様に、尚も溢れる首筋に唇を押し当て、祐巳から零れ落ちる赤
い奔流の全てを吸い尽くす。口の端からは、飲みきれない血潮が漏れて、さらさらと首筋
から鎖骨へと流れていく。鼻先も、頬も、何もかもが赤く染まる。生温く、濃い匂いを帯
びた粘液。首を手で支え、更に其の流れを促しながらも、其の吸う唇を離そうとはしない。
どれほど流れてしまったのだろう。もう、彼女の体からは血の雫は溢れては来ない。
名残惜しそうに、そっと地面へと彼女の遺骸を横たえると、髪を縛っていたリボンを外
した。するりと蝉の抜け殻が落ちる様にリボンが髪の上を滑る。湿気を吸った髪が、ばさ
りと容を失い、地面へと其の足を伸ばす。
二本のリボンを外すと、桂は自分の髪に其れを括りつけた。元の持ち主ほど長くの無い
髪では綺麗に縛る事は出来ない。其れでも、懸命に髪を掻き集め、結び上げる。
窓硝子に映った自分の姿が歪だったのは、きっと雨が窓を濡らすから。
「祐巳さん…ううん、祐巳さんだった誰かさん…もう、大丈夫だからね」
優しく、其れ故に余計に歪な笑顔を浮かべて、桂は、桂だった者は祐巳だった物に囁いた。
温室の扉を、肩で押し当てるように開け放つ。
何故自分が此処に来たのかは分からない。祐巳との、思い出が。絆が其処には確かに在った
場所。彼女の温もりが残っている様な、気がしたからだろうか。
雨の臭いが温室へと吹き抜けて、代わりに花の臭いが…しなかった。
あるのは、濃厚な噎せ返る血の匂い。吐気が込み上げる。
目の前には、一人の少女。
祐巳のリボンを無理につけ、歪んだ微笑を湛えた一人の見知らぬ少女が、何かに話しかけていた。
紅く染まった人型の何か。
祐巳の容をした、何か。
濡れた風がばさりと桂の躯に纏わり付く。
其の先には、呆然と此方を見る祥子の姿があった。
お姉さま。
祐巳さんだった彼女のお姉さま、私だった祐巳さんのお姉さま。
桂は、彼女そっくりに笑いかけようとした。ぺきぺきと固まった血が顔中を引き攣らせる。ばらば
らと、欠片が服の間をすり抜けて、胸の間に貼りついた。
「ごきげんよう、お姉さま」
祐巳さんと同じ様に。優しく笑う祐巳さんと同じ様に。小さく咲いた菫の華が如く。
其れでも、祥子は其の表情を崩す事無く、祐巳だった物しか見てはいなかった。
「此れは…どういう事なの?」
絞り出すような声。喉が渇ききって、唾液が奥で絡まっている。
「祐巳…貴女、祐巳をどうしたの?!」
「何を仰っているんですか、お姉さま。祐巳は」
私ですよ。此処に居る私が、貴女の妹の、祐巳ですよ。
ぎちぎちと固まった血が崩れる音。発条仕掛けの玩具がする笑顔。
「何を…言っているの?」
「彼女が…彼女にはもう無理だったんです。だから、私が祐巳さんの全てを貰ったんで
す。何も苦しくないように、何も悲しくないように、寂しくないように、静かに静か
に眠らせたげたんです。その代わりに、私が、祐巳さんに」
「貴女が…殺したの?」
冷たい声。まるで、この雨の様に。
「はい」
優しい声。まるで、この薔薇の様に。
短い音。強く肉がぶつかる音。
ばらばらと桂の頬から、そして祥子の掌から祐巳の血液の欠片が雪の様に舞った。
「貴女は…自分が何をしでかしたか、分かっているの!?」
「…祥子さま…いいえ、お姉さま」
「貴女にお姉さまと呼ばれる筋合いはないわ!」
「いいえ、お姉さま。祐巳さんが望んだんですよ」
「祐巳が…貴女に殺して欲しいとでも?」
奥歯で溢れ出る憎しみを噛み締める。きりきりと骨の軋む音。かちかちと震える肩。ど
んなに憎悪と悲しみで濡れても、祥子の姿は美しかった。
「はい。もう、薔薇でいるのが厭だったと」
「何…ですって?」
嘘。嘘だった。全ては、桂の抱えた虚妄の黒。薔薇の花弁と一緒に飲み込んだ、思い込
み。其れでも、祥子には、分からない。祐巳が本当に抱えていた暗がりも、もう知る由も
ない。
「だから、今日から、私が祐巳さんです、お姉さま」
桂の声が静かに温室に響き渡る。後は雨の音。執拗なまでの雨音。
祥子はふらふらと祐巳の遺骸へとにじり寄り、そっと其の小さな身体を抱え上げる。
「お姉さま?」
「…祐巳は、私の妹は、此の娘だけよ」
短く、しかし強く言い切ると、抱きかかえて、温室の外へと出て行った。
「待って!待って、お姉さま!」
追い縋る指先。無情にも閉まる温室の扉。
「お姉さま!お姉さま!おねえさま!」
祐巳は私。貴女の妹は私。紅薔薇の名を冠するのは私なのに。
「お姉さま!お姉さま!お姉さま!お姉さま!お姉さま!」
がりがりと扉に爪を立てながら、崩れ落ちる。
私が、祐巳さんにならないと。私が、彼女の全てを抱え込まないと。
そうでないと、何の為に、私は彼女を殺したと言うのだろうか。
「お姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さま
お姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さま
お姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さまお姉さま」
何度も何度も爪を立てる。追い縋る。爪が割れて、剥き出しになった肉を扉にこすり付けても尚。
「お姉さま…どうして、お姉さま」
崩れ落ち、泥濘となった地面へと顔を埋めて、桂は泣いた。
扉は赤く染まっていた。血で彩った、偽の紅い薔薇が咲いているようだった。
祐巳の死体を抱えながら、祥子は歩いていた。
雨で灰色に煙る世界の中を、涙も流さずにたった一人で。
傘も差さずに、黒い制服が尚も暗く黒く染まるほどにゆっくりと、そして優雅に。
風が吹いても、彼女のスカートは水を吸って重くなっていた為に、翻る事は無かった。
薄くなった祐巳の血が、ぽとりぽとりと制服の裾へと流れては染み入る。
其れでも、祥子は歩き続けた。
其処にはマリア様がいた。濡れるマリア像の前。
そっと其の場に祐巳の身体を横たえ、膝を折り、祈りを捧げる。
祥子の代わりに、空が泣いてくれている。
「マリア様…私は」
水中花を。
水の中でしか咲けない花を、瓶の外へと出してしまったのかも知れません。
其の美しさに、耐えかねて。
ずっと手元に、置いておきたくて。
水中花を、いつか父の見せてくれたあの偽者の花と同じに、腐らせてしまいました。
どうか、私をお許しください。
空からは相変わらず六月の雨が降り、マリア像は其の表情を崩す事は無い。
祐巳は、祥子の祈りの元、もう花開く事は無い。
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