春 夏 秋 冬
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
―苦悩と無力とがすべての背世界を造ったのである。
松虫の鳴声が犇めいた夕暮れに漂った夏の終わりは、蝉の死骸の形をしていた。
紗に染まったアスファルトの片隅で、互いの腹を繋げ合ったままの二匹の虫は、黒く醜
く枯れ果てていた。耳鳴りの様に生きた虫の声が響き、反射で遮られた窓の中ではしゃぐ
子供の声、遠く低く鳴く車輪の唸り。其の全てが、鮮やかな夏の緑に閉じ込められたまま
の彼等を嘲笑うでも無く、嘆き悲しむでも無く、只無関心なまま、行き過ぎる群集の様に
音のある沈黙を保ったままに、死んだ夏の虫をくすんだ秋の黒で覆う。一切の色彩を拒む
其の姿、七年の歳月の重みに耐えかねて、七日の命を無価値なままに、只一夜の戯れに溺
れて死んだ其の姿は、海辺に滞った残り水の中で泳ぐ小魚よりも哀れで、空の落ちてくる
のを怯える人よりも愚かに映り。秋の欠けた色彩の中で、二つの一つの死骸が白い布に浮
いたインクの染みの様に、輪郭を滲ませて、其れ故に明瞭と、道の片隅で視界に翳る。
実をなさぬ花に、人は何を見出すと云うのだろうか。毒々しく色付いた花弁が風に揺れ
るのを見て。花実の咲かさぬ蔦に、人は何を感じえると云うのだろうか。只芽吹き、只絡
まり、其の全身に守るべき物も無い無価値な小さき棘だけを全身に生した、いずれ腐りゆ
き枯れ果てる茨に。
初めに罵り、二つに笑い、三つ嘆き、終いに忘れ、視覚された無為の中へと埋めて。其
の先に、人は何を思うのだろうか。かつて何かであった、かつて何かであろうとした、哀
れで愚かな醜い草に。紡がれぬ其の営みに、咎を見出しては、吐き捨てて、うず高く降り
積もった芥の山を見据え、人は何を感じ入るのだろうか。匂い立つ腐臭は、傲慢と貪欲の
香りを振り撒きながら、肉欲に爛れては壊れゆくのに。人は、其れでも、押し込めた無言
を噛み締めながら振り返らずに立ち去るのだろうか。其処には、そんな物は、最初から無
かったのだと。この乾涸びた虫の死骸の形をした夏の残り香の様に。
そっと小さな二人連れへと、弔いの白いハンカチを被せ、栞はそっと包み込んだ。固く
強張った甲虫の殻と手の中に感じた虚ろで満ちた躯の軽さは、心の傍らで冷たく閉じたまま
の白き薔薇のつぼみを思い起こさせ。
―其れが、一層悲しみを募らせた。
泣くでもなく、嘆くでもなく、酸に犯された鉄屑の惨めな赤錆の様に、只静かに穏かに、
其れ故に激しく心を食い破り、終いには脆く打ち崩す。細く伸びた糸が捩り合い、絡み合
い、解けない程に玉になり、ぷつりと其の重みに耐えかねて切れてしまう。其れが、本当
の悲しみと云うものだと。布の棺に閉じ込められたつがいの死骸を両手で包み込みように、
持ちながら、そう思った。
手の中で、いつから始まったのかも知らぬ常世の眠りについた彼等をそっと鞄の中へと
仕舞い込み、栞は帰りの道を踏みしめた。
互いの肌が求肥の様に、其の境目を喪う錯覚を覚える程に、きつく強く彼女の身体を抱
きとめながら交わす口づけは甘くも切なくも無い。只自身を包み込み、強く絡み合う度に
拒絶し合う殻の厭わしさを、まざまざと思い起こさせるだけで。交し合う瞳の奥に揺らぎ
ながら映る自らの虚像。其れさえも今は厭わしい。虹彩の翳りにさえもなれぬ自分が、厭
わしくて仕方が無かった。廃絶のセメント、自らが積み上げては固めた其の壁が、天から
舞い落ちた罰にも思える程に。
唾液で濡れた互いの赤黒い舌を解けぬ様に絡ませて、呑み込む様に啜り上げ、もう二度
と離れぬ様にと願っても、荒く吐かれた生温い息と共に遠ざかっていく。例え数ミリの隙
間であったとしても、其の溝は久遠にも思え。
「どうしたの?」
数秒の空白の後に彼女は、青磁器の様に透き通った指先で強張ったまま上手く笑えない、
彫像となった頬をなぞる。仄かに残る体温さえも、一つになれないもどかしさを鉄の爪で
抉る様に肌の上に残すだけで。人は如何して温もりを持って産まれてしまうのか。触れる
度に孤独の空虚さが溶けかけた氷の欠片にも似た冷たさを持って背筋を流れていくだけだ
と云うのに。余りにも其の温もりが心地良過ぎるから、一瞬を忘れる程に暖か過ぎるから、
離れた数秒が永遠に思えてしまうのに。如何して、其れでも尚望んでしまうのだろうか。
傲慢が心の中に耐性の結晶を形作り、終いには何一つ満足出来ないまでに貪欲を肥大させ
ていくだけだと云うのに。如何して、私は一人のままで生きる事を忘れてしまったのだろ
うか。澄んだ黒い瞳が、不審の色に濡れる。
「なんでもないよ」
喉の奥で煮えたぎる焦燥が蠢くのを、奥歯で噛み殺す。零れ落ちた声が掠れて、温室の
窓を叩く秋雨に殺される。こんなにも近くに居るのに、只の一言さえも届かない。遠い。
何もかもが遠過ぎる。湿気に濡れた風に入り混じる花の香り、名前も知らない、数も知れ
ない花々の甘たるい蜜の香りが滑り込む寒さと共に頬を撫で、身体を締め上げる。
窓の外には雨。何時までも止まずにあればと願った雨がだつだつと地面を穿ち、埃と花
粉がこびり付き黄色く染まった窓を叩く。水のレンズが世界を撓ませ、自分と彼女とだけ
を取り残し、何もかもが沈んでしまった様な錯覚を覚えさせ。若しも、本当にそうであっ
たとしても、私は永遠に一人きりを味あわなければならないだろうに。二人で産まれた為
に、抱えねばならなくなった、躯の檻が造る一人きりを。
尚も淡く濡れたままの彼女の瞳。其の視線に耐えかねて、私は指先でそっと彼女の目蓋を降
ろし、血の流れが見える程に白い瞳の上の皮へと唇を当てた。下唇を鼻から零れた吐息が撫で
る。ゆっくりと首を抱く様に腕を頭の後ろへと回し、強く引き寄せる。
「聖?」
言葉では答えない。其の代りに少し汗ばんだ額へと唇で返事を、抱え込む様に彼女の頭
を胸元へと引き寄せて、長く艶やかな髪に指先を滑り込ませる。絹の感触、しっとりと包み込
む優しさ。優しさと云うのは、時折人を傷つける。其の、優しさ故に。彼女と触れ合う此の一
瞬が、其の後に続く永劫にも似た時を狂わせる。
彼女は何一つ、言葉を口にしないまま、私の胸の中で静かに目を閉じていた。鼓動さえ
も聴こえない。吐息の一つも、聴こえない。其れが、私に思い知らせる。私と、彼女とは、
別たれたままなのだと。
「栞さん、だったかしら?」
其れは、放課後の事。廊下を渡る私の名を呼ぶ声に振り返った。
「…白薔薇さま」
其処に立っていたのは白い薔薇の名を冠した一人の少女。そして、聖の偽りの姉。穏か
に笑いながら、彼女は腕を組み。其の姿は、さして自分と背も変わらないと云うのに何処
か上を見上げているかのよう。其の瞳は、琥珀よりも濃い鳶色。色素の薄い、幾度と無く
見たあの青の混じる色と似ていながら、僅かな黒が混じりまるで異なった色。映り込む自
身を、見透かされているよう。
「ごきげんよう」
辛うじて喉を震わせる挨拶の言葉。其れ以上は、何も問う事も出来ない。自分に何用か、
問うまでも無い、そんな気がした。
「今、お時間あるかしら?」
あるのなら、少し付き合って。
断る事の出来る余裕さえも与えない声で彼女はそう告げた。
踵を返し、こつりこつりと廊下を行く彼女の後を、私は只ついて行くより他に選択肢を
持たない。放課後の喧騒が廊下には満ちていた。低く、落ち着いた、甘たるい喧騒。其の
中を、私は泳ぐように歩く。窓の外には木々が、枝葉につけた枯れた葉を風に弄ばれなが
ら、さわりさわりと身を揺らし並ぶ。色彩の欠けた景色。其れはもう冬が近い事を、秋が
死の季節に蝕まれている事を、詠っていた。一つ足を踏みしめる度に、霧の様な冷気が頬
を、耳を、指を苛み、過ぎていく。目の前で、時折交わされる挨拶に穏かに返しながら、
すたすたと歩く一人の少女の姿。自分よりも二つしか違わない筈なのに、ほんの1mしか離
れていない筈なのに、とても遠く思えた。何が自分にそう錯覚させるのだろうか。其の二
年に、此の1mに横たわる歳月は何なのだろうか。其の溝に居るのは、恐らくは、あの鳶色
をなのだろうか。鳶色の瞳を、青みがかった瞳を持った。
階段を降り、何処へ行くとも告げずに彼女は先へと進んでいく。幾人もの生徒が私達の
横を通り抜け、視界の外へと消えて行く。全ては書割の景色の様に。何処かで一度は擦れ
違っている筈の、彼女達には彼女達の重みと深みを持って歩いているのに、全てが稀薄に
感じられる。目の前を歩く一人の少女と、自分より他に、世界を語る者はいないとでも思
えるようだった。
只の数分歩いただけなのに、とても辿り着いた場所は遠い彼方に思えた。
食堂の脇にあるミルクホール。其処で彼女は二本、牛乳の瓶を買った。一つは自分の手
の中、もう一つは私へと向けて。其れを取るべきか否か、逡巡してしまう。
「…もしかして、牛乳はお嫌いだったかしら?」
「い、いえ…そういう訳では、無い、です」
空いた口からほんのりと湯気が立ち昇っている。受け取った硝子の器は、思いの外熱か
った。冷え切った指先に、突き刺さる程に。きつく、手の中に収まった鳩が逃げない様に
握りながら、飲むでもなく、置くでもなく、胸の中に押し抱く。立ち昇る独特の甘い湯気
が鼻を擽る。私は、其処で、此処で牛乳を飲むのが初めてだと思い出した。
彼女は、息で冷ましながら、一口啜る。
「あの…白薔薇さま」
手の中で私の体温を吸い、温くなっていく瓶。僅かに視界を曇らせる吐息。隙間越しに
只ゆっくりと牛乳を啜る彼女に向かって私は問うた。
「一体…私に何の御用なのでしょうか?」
問うまでも無い。そう思ってはいた。何を言われるのか、具体的な像は結ばない。其れ
でも、分かっていた。
ああ、と彼女は一口啜ると、テーブルの上に瓶を置いた。
「只、貴女と牛乳が飲みたかっただけ」
変かしら、そう告げてくすりと小さく笑い、私の方を向いた。
「神様って、どんな人なのかしらね」
少しの空白を置いた、唐突な問だった。
「神、様ですか?」
「ええ」
「…何故、私にそんな事を?」
何故、私にそんな問を投げかけるのだろうか。
「如何してかしらね…何か、面白い答が聞けそうだから、かしら」
耳にかかった髪をそっとかき上げる。露になった白い耳は縁が少し赤く染まっている。
寒さの所為より他に理由は思い当たらないのに、胸がずきりと痛む、そんな色に。
「私は、貴女と違って信仰には疎い方だから、一週間で世界を造ってしまう存在なんて
想像も付かなくてね…だから、聞いてみたかったのかしら。どう、思う?」
「どう…と聞かれましても」
そんな事は、今まで考えもしていなかった。と言うよりも、最初から其処にある、と云
う前提で生きていたから。
「奇跡とかも…誰だったかしら、何処かのお医者さんに言わせれば偶然に、人が勝手に
意味をつけているだけだって言い張るだろうし…そう、アベルとカインのお話だったかし
ら。一人は沢山取れた麦とか果物の半分を、もう一人は全然少ししか取れなかった全てを、
奉納した時に、半分しか収めなかった方を叱ったりして。世界を造ってしまった人にして
は、少し了見が狭い様な気がしないかしら」
「其れは…其れは、少し違うと思いますが」
若しかしたら、自分の声には僅かな憤りが混じっていたのかもしれない。呟く程の声で
言った心算が、思いの外大きくミルクホールに響いてしまった。幾人かの少女が此方を怪
訝そうに窺っているのが分かる。恥が、じくりと胸に刺さり、私は勤めて落とした声で、
言葉を吐く。
「心の…問題だと思います。どんなに沢山獲れたのだとしても、どんなに少ししか獲れ
なかったにしても、捧げた量が例え同じだったとしても」
「…神に対する、接し方の問題だと?」
「…はい」
そうね。そう言って、置いていた瓶を取り、中の白い水を一つ口に運んだ。
「シスターが結婚をしないのも、同じ事?」
「ええ…そう、です」
「愛するものは、神より他に無いと?」
「…はい」
そうね。先程と同じ言葉。声に混じる感情は違う色。グラデーションの位相が一つずれ
た、そんな色。白から黒に向かうグラデーションの隣。例え、似通っていたとしても、明
らかに違う色が。
「栞さん」
名を呼ぶ声は、熱した刃のよう。丁度、手の中に収まった瓶と同じ温度に。きちりと耳
が痛む。只、名前を呼ばれただけの筈なのに。
「貴女は其れで良いのかもしれない…でもね」
あの娘は違うのよ。ことりとまたテーブルの上に瓶が置かれた。
「あの娘には…何も無いの」
温室の外には未だ雨が鳴り止まない。絡まり合った二人の髪が湿気で濡れていく。濡れ
て、きつく結ばれて、解けなくなるような、妄想。このまま、身体ごと捻じ曲がって一つ
になれはしないだろうか、どれだけの苦痛を支払ってでも良いから。真っ直ぐに編まれた
筈なのに、気が付けば絡まって二度と解けなくなった糸の様に。地獄の機械が紡いだ、糸
の様に、なれないだろうか。
―浅はかだ。そんな、願いは、子供じみた願いは、浅はかで、醜い。
虚無を開拓する。僕は虚無を開拓する。君は虚無を開拓する。僕らは虚無を開拓する。
其の一綴りに、意味なんかありはしないのと同じに。彼女を抱く腕に自然と力が籠もる。
此の雨が止むまでは、体温を感じていられる。例え、其の体温が残酷に、互いを感じさせ
てしまうとしても。私には其れしかない。其れを感じるより他には、何も無い。焼けた石
の上には乾きだけがうず高く積もる様に。此の雨が、全てを流し去ってしまえないだろう
か。方舟は要らない。青い闇に、私は沈んで行きたい。二度と離れぬように。
「聖…」
布で遮られ、くぐもった声が胸に響く。きちりと爪が私の背中を掻く。不安が転移して
くる。何に怯え、何を拒み、何の蟠りを抱えているのか。私は彼女ではないので知らない。
悲しい事だけれども、分からない。
「聖」
もう一度、私の名を呼ぶ。か細い声。雨に殺される。
答えずに、そっと身体を離し、彼女の唇へと自分の口を重ねた。少し塩の味がする。泣
いている。私と彼女、どちらかが。静かに、触れるだけの口づけ。滲み出す涙が唇と唇が
造る隙間に入り込み、溝を掘っていく。結ばれない距離だけが増えていく。其の度に、自
分の唇を相手に強く押し付けた。骨と骨が当たる程に強く。舌を絡ませれば、尚も。其れ
でも、私はそうしなかった。彼女も、しなかった。繋がれば繋がるだけ、距離だけが広が
っていくような気がしたから。幾度と無く身体を重ねても、虚無だけが累積していく。其
の重みに耐えかねて。
只、雨だけが、降り続く。
永久に止むな。例え一時でも手を繋いでいられる此の時間を。
もう、止んで欲しい。此れ以上、二人で居るのには耐えられそうにない。
部屋の明かりをつける気にはならなかった。窓の外に広がる青黒い海にはぽつりぽつり
と黄色い粒が浮き、其の数だけの平穏を彩る。私は、机の上に鞄を放り出し、未だ暗がり
に慣れぬ目で中を漁る。数冊の教科書と、同じ数のノート。そして、一塊の布。私は、机
の上にそっと其れを開いた。暗闇から零れる、薄い暗闇が僅かな光を差して、輪郭だけを
映し出す。繋がったままの、二匹の蝉。繋がったまま、孕む訳でもなく、死んでいった夏
の残り香。其の肌をそっと撫でる。硬く、其れ故に脆い光沢が指を僅かに歪ませる感覚。
腹だけが一繋がりに、後は離れて硬直した死骸。折れ曲がった肢は宙を掻いたまま息絶え
た事を告げていた。
―あの娘には、何も無いの。
其の言葉がじくりと棘になって胎に突き刺さる。互いに何も産まぬ愛は、咎なのだと。
知って居るのに、知っていた筈なのに。全てを譲り渡したと思い込んでいたのに。目を閉
じて、思い浮かぶ物は、容の無い神ではなかった。神は、どんな姿なのだろうか。どんな
姿で、私を見据えているのだろうか。見上げた空の星を思う。海の底に沈む青を思う。風
の辿り着く先を思う。何も無い、何も、無かった。二匹の死骸の横に、顔を横たえた。ぼ
ろぼろになった翅が、葉脈の様な筋を浮かせ、ぺっとりと背に貼りついている。動かない。
愛を交わしたまま、動かない。彼等は、咎を罰せられるのだろうか。罰を背負わねばなら
ないのだろうか。何も生まない、彼等は。只一心に、求めただけだと云うのに。其れは、
罪なのであろうか。何も産まない事が罪ならば、最後の審判で天へと昇れる者はどれ程だ
ろうか。指で再び彼等を撫でる。枯れ葉を踏みしめる感触と共に、脆くなった翅が剥がれ
落ち、指に付いた。ざらりとした感触。何一つ潤いの無い躯。
ぞくりと、情欲が胸に滞る。
何故だろう。何故、私の身体は今、愛に飢えたのだろう。神への物ではなく、ビスクド
ールの顔を持った彼女へと。
「…い」
名前が呼べない。舌が忘れてしまった。こんなにも鮮烈に目蓋の裏に浮かぶのに。声だ
けが、出ない。こんなにも触れられる事を望むのに。只一言、名を呼ぶ事が出来ない。そ
ろりそろりと着たままの制服の上に指を這わせる。軽く胸をさすり、スカートの中へと手
を滑らせる。太股を焦らす様になぞる。いつも、彼女がそうするように。此の指が、彼女
の物である様にと。下着の上から、秘裂にそって指を動かす。涸れていた唇が、徐々に潤
いを持ち、下着を濡らしていく。尚も執拗に、機械的に手を這わせ、引っ掻く。物足りな
い。こんな物では、満たされない。
「せ…」
名前が呼べない。如何しても、声にならない。食い込んだゴムを持ち上げて、直接陰核
へと爪を立てる。びりびりとした快感が背筋を昇る。奥歯がぎしりと噛み合い、這い登る
感覚を押し殺す。口の中に、紛れ込んだ髪が一筋舌に絡まる。厭な味がする。何もしない
味と云うのがこんなにも厭な物だとは知らなかった。何も無いと云う事が。指先が別の生
き物になった様に、性器を弄り、舐る。膣の入口を爪で掻きながら這い、肉芽へと幾度と
無く見えない痕をつけていく。痛みにも似た悦楽。指先を濡らすのは、はしたなく流れた
物なのか、血の流れなのか。どちらでも良い。どちらでも同じ事だ。孔の中へと人差し指
を入れ、膣壁を引っ掻く。爪の中に何かが詰まる感覚。滑りながらも襞が硬く拒絶し続け
ていた。呑み込まれる様に、一つの指を二つへ、そして三つへと増やし、中を尚も抉り続
ける。親指で皮に包まれた肉珠を刻みながら。かくかくと膝が震える。限界が目の前に広
がっていた。
「…ぃ」
名前が呼べない。只の一度、呼ぶ事も出来ないまま、私は絶頂へと上り詰めていた。
ぐったりと身体中に疲労が圧し掛かる。力が入らない。だらりと腕が下へと垂れ下がり、
顔の前に置かれた片方の腕を虚ろに見つめる。宙を掻く様に折れ曲がった指先は、まるで
断末魔もつけないまま死んだ蝉の様だった。荒く息が零れる。
「…聖」
漸く、其の名が唇に戻った。
其の瞬間に、私の中で何かが壊れ。喉の奥から嗚咽だけが長雨で氾濫した河の様に込み
上げてきた。
「ああ…あああああああああああああああああああああああああああ!」
勢い良く振り上げた腕、そして力強く下ろした先にあるのは蝉の死骸。
ぐしゃりと紙細工を壊した様な感触が手の腹に伝わった。何度も、何度も、私は腕を振
り下ろし、容の無くなる迄、彼等へと打ちつけた。
もう真っ黒い粉だけになった其れが手の平中にへばりついていた。蝶の鱗粉の様に。ぎ
ちりと握り締め、私は、目を閉じた。
マリア様は、ステンドグラスから零れる光に汚れても尚、静かに微笑んでいた。其の前
に、跪き、静かに手を合わせ。きいっと御堂の扉が開く音がする。誰かは見なくても分か
る。目蓋を閉じたまま。
「栞」
名を呼ばれる。そっと席を立ち、振り返ると確かに彼女が立っていた。まるで、人でも
殺した後のように、蒼白な色。鳶色が僅かに揺れている。
「どうしたの?」
そっと歩み寄り、其の頬に触れようと思った。感情の奔流が、空っぽのままの彼女の中
に渦巻いている。悲しみでもなく、憤りでもなく。其れは、小雨に濡れた猫の死骸にも似
ていた。がちりと私の手を払い、両肩を掴む。ぎりぎりと軋みをあげる肩。其れでも、何
処か弱々しく。指の隙間、すり抜けていく海の水を懸命に追い縋る。
彼女の問は、私が卒業した後の事を問う事だった。シスターになるなど聴いていないと。
隠していた訳ではなかった。如何しても、言う事が出来なかった。其れを言ってしまえば、
全てが崩れ去ってしまうような気がした。彼女の中で、ではない。私の中の信仰が音を立
てて壊れてしまうのだと思っていた。彼女を求め、彼女に縋られ、彼女と共にある時間の
中で、全てを忘却の海へと沈めてしまいたかった。
「聖のこと、好きよ」
偽りは無い。それでも、
「私の存在が貴女を傷つけてしまうのね」
涙がするりと瞳から落ちた。かすんで、彼女の顔が良く見えない。多分、其れは欺瞞だ。
彼女が自分に寄りかかり、何も無い彼女が私に救いを求めても、神の住まう心には収まる
場所など無い。そんな、欺瞞だ。全ては、自分の為。全ては、自分の思い込んできた何か
を手放したくなかっただけ。信仰も、彼女も。何と、自分は、厭な存在なのだろうか。
顔を引き寄せ、彼女が私の唇を貪ろうとする。其の顔を、跳ね除けた。
マリア様が見ているからと。
嘘だ。心の中でどす黒い、あの潰してしまった蝉の姿をした自分が哂う。嘘だ。嘘では
ない。このまま、彼女を受け入れたら、私の中の聖母は二度と私に微笑む事は無いだろう。
だから。嘘だ。全ては自分を守るため。神に縋った筈の今までを壊したくない、怠慢な心
が言わせたものだと。違う。違う。
「それが、答なのね」
そう云って、彼女は背を向けて。
御堂の扉が開き、彼女の姿は無くなった。
脚の骨がずるりと抜けた様に、私は其の場に崩れ落ちた。
「マリア様…教えてください」
ぽたりぽたりと雫が握り締めた手の甲へと落ちる。不快だ。
「何も失わない愛なんて、あるのでしょうか」
雨が止まない。唇も離れない。
私は、そっと顔を離した。
「ねぇ、栞」
私は、静かに彼女に問う。
「…貴女の仰っている」
其処で漸く、志摩子は言葉を思い出した。舞い散る桜、漂う腐敗の香、其の中で忘れか
けていた言葉を一つ一つと取り戻していった。少女は、穏かに微笑みながら此方を見、そ
して舞い落ちる花弁を厭わしげに払い除ける。
「神を殺した、とは如何いう意味なのですか?」
彼女は、其の問に答えなかった。其の代りに片目を覆っている眼帯へと手をかけた。ぷ
ちりぷちりと肉へとへばりついた布が、腐敗にくすんだ肌を千切る音が飛び交う蝿の羽音
に混ざり耳へと。其の度に、彼女の隠された瞳から涙の様に一筋の、茹で過ぎた卵の黄身
色の汁が真っ直ぐに頬を滑り落ち、顎を濡らし、世界へと零れていく。其の姿は、蝋人形
の瞳が其の熱に負け、泣いている様に溶け始めている。零れ落ちる雫は、彼女自身の。自
身の。何であろうか。志摩子には、想像も出来なかった。
ぷちり。最後に甲高くそう響く。すっかりガーゼは剥ぎ取られ、赤茶け、ほつれかけた
布は風の中、指の先で踊る。其の表面に、細かく別たれた、自身を植えつけて。
「一緒に、死のう」と。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
戻